蟹工船がいま若者に読まれている―。プロレタリア文学の古典といわれるが私はまだ読んだことがなかったので、買って読むことにしました。
 昭和の始め頃、資本の論理しかない無法な労働の現場で働く労働者。途方もなく悲惨な労働の実態、資本の露骨な搾取。作品の世界は暗く、これがいま多く読まれているのが意外な気がしました。
 読みながら、人は働くことに何を求めているのかと考えました。自分の力が社会に貢献しているということ。誰かの役に立っているということ。または、働くことを通じて自らを成長させ「なりたい自分」になっていくこと。もしくは、自らの生計を立てて、経済的な自立をすること。おそらくこういうことだと思う。
 蟹工船の労働者に共感をおぼえる青年が多いというなかで、こういう要素は全くそぎ落とされた労働を、多くの青年労働者が味わっているのだということを感じました。
 働く先で名前すら覚えてもらえず「オイ」などと呼ばれる。短期雇用で1カ月先の身分の保証もない。何か改善を求めたりすれば「代わりはいくらでもいるんだから」。自分の仕事の意味や役割を考える間もなく次々と現場を変えられていく。教育も保障されないため働いても一向にスキルが身につかない―。
 こんな状況で働く青年労働者が、社会との関係で自分の存在を肯定的に評価できるのだろうか。会社がもうけをあげるための「道具」でしかなく、会社の都合で簡単に切り捨てられる存在であるということを社会に出たとたんに味合わされる。なかには本当にモノのように扱われ、使い捨てにされる労働者もいる。
 多くの青年労働者が不安定な非正規雇用で働く社会になって、本来ならば働く経験を通じて得られる人間的な成長を多くの若者が阻害されているのではないかと思いました。
 小説のなかで労働者たちは、自分たちや仲間のために連帯して立ち上がることで、無視された人間らしさや人間の尊厳を取り戻していった。この「蟹工船ブーム」が、青年が連帯する力になっていけばいいと思いました。(瘧師ちえ・24歳、京都民医連第二中央病院)