『太陽がほしい』
被害者の万愛花さん。14歳の時に現地の抗日活動に共感し、協力。3回にわたり、日本軍に捕らえられます。抗日活動家の名簿の提供を一切拒否したため、拷問と性的暴力を受けました ©2018 Ban Zhongyi

 戦時中、日本軍による中国人女性に対する性暴力被害について取材してきた中国人の班忠義(バンチュンイ)監督が、20年以上にわたる調査記録をまとめたドキュメンタリー映画『太陽がほしい』を昨年完成させました。10月には京都みなみ会館(京都市南区)で上映が予定されています。班監督に、調査の動機、被害の実態、この問題を学ぶ現代的意義などについて聞きました。

衝撃的だった被害者の訴え

 ―調査することになった動機は

 上智大学の大学院生として日本に留学していた1992年のことです。東京で開催された「日本の戦後補償に関する国際公聴会」で被害者の万愛花さんが証言する様子をテレビのニュース番組で見ました。万さんは訴えている最中に卒倒してしまいました。その姿に衝撃を受け、彼女が参加する集会にすぐに行きました。そして3年後の1995年から20年以上にわたり、100人の被害女性を訪問しました。

 ―被害の実態はどのようなものだったのでしょうか

 朝鮮半島の出身者が10数人、中国籍の人が80数人。中国籍の人のうち、「慰安所」に入れられた経験を持っていたのは2人だけ。ほとんどが、「慰安所」のある都会ではなく、日本軍の前線があった山村や農村の若い女性たちでした。自宅から、日本軍の駐留地近くにある民家に強制連行され、監禁され、被害にあっていました。

班忠義監督
班忠義監督
知られてない中国での被害

 外から施錠され、トイレに行く時だけ門番の監視のもと外出が許され、太陽を拝むことが出来る状況で、映画のタイトル『太陽がほしい』は当時の被害女性が発した言葉からとりました。

 銃剣で脅され、暴力をふるわれながら昼間は日本兵や中国人の傀儡兵に次々襲われ、床は血で染まりました。夕方から朝まで隊長らの相手をさせられました。

 これらは、日本で語られる「慰安所」に入れられた「慰安婦」とはかけはなれており、中国における戦時性暴力の特徴で、被害総数は「慰安婦」より多かったと考えられています。中国人被害女性が「私たちは慰安婦ではない」と長年訴えているのはこのことからです。

 戦後、彼女たちは地元で被害の事実が知られ、満足な結婚が出来ませんでした。体の不調や被害のトラウマに悩まされ続けました。私は、彼女たちの医療を中心としたケアを行うために、日本の一般市民の支援を受け、会を立ち上げました。

過去に学んでアジア友好を

 ―なぜ、映画化しようと考えたのでしょうか

 2013年、橋下徹大阪市長(当時)は「慰安婦制度は必要だった」と戦時性暴力を公然と肯定しました。私は、長年にわたって被害女性の調査・検証し、支援に携わりながら、それらを伝える努力をおこたってきた自らの責任を痛感し、今までの調査をまとめ映画にすることにしたのです。

 現在、そして未来を考えるためには、過去の事実を真摯に見つめなければなりません。被害女性が亡くなってしまった現在、彼女たちの言葉を映像に残し、後世の人々が考える糧にしてもらうおうと考えました。それだけでなく、日本軍兵士の証言、当時の歴史の解説も加え、より事実を客観的にわかりやすくしようと編集しました。

 戦時性暴力問題は、人権問題です。戦争がどれほど人間を残酷に、非人道的に変えてしまうのかを明らかにしています。また、男性が女性を差別する、封建的な考えによって起ったことでもあります。この問題を学ぶことで、戦争も差別もない社会に向かう一歩となることでしょう。

 国と国の対立というナショナリズムの枠組みで考えるのは正しくありません。中国も日本も今まで「利」を大切に、争ってきましたが、「義」を大切にするときが来ていると思います。義の漢字の意味は羊の肉を皆で分け合うことです。歴史を謙虚に見つめ合ってこそ、東アジアが友好的に未来を歩めるようになるのです。