「平和のための京都の戦争展」の京都平和遺族会による文化企画が8月2日、京都市上京区の長浜バイオ大学京都で行われました。ともに平和遺族会会員である、「満州」からの引き揚げ者・内藤玲子さん(城陽市在住)が、引き揚げ体験、元赤旗記者の柿田睦夫さんが遺族会について講演しました。

 内藤さんは「戦争が終わるときに〝満州〟五族協和の成れの果て」をテーマに講演しました。戦時中「満州」に渡り、三江省(現黒龍江省)佳木斯(ジャムス)に住んでいた内藤さんは1945年8月9日のソ連の参戦後、逃避行。直後に兄がソ連軍の戦車隊と戦い戦死。父はソ連軍の捕りょとなったため、臨月の母、7歳の弟、3歳の妹の4人で逃げたといいます。その後、母が男児を出産し、父がソ連軍の施設から脱走して家族に合流できたものの、極寒の地で妹がコレラで、生まれたばかりの弟も肺炎でそれぞれ死亡。避難宅をソ連兵に侵入された恐怖を味わった数日後、母も他界するなどの惨状について声を詰まらせながら語りました。

 内藤さんは、ソ連兵が日本人の民間人に対して殺害、窃盗、強姦を行うのを目撃しました。ソ連兵が蛮行を行った背景について、「ソ連は西部戦線で兵士を失ったため、シベリアの囚人に軍服を着せ、武器を持せて東部の『満州』を侵攻させることになった」などと語りました。また、日本政府が「満州」に傀儡政権を作り、「五族協和」を宣伝文句に日本人開拓者を集めて送りこみましたが、戦後、侵略者の日本人に冷たい仕打ちがまっていた、とのべました。内藤さんの父も日本人が「満州」の人々の農地や住居を奪ったために、日本人が恨まれることになったと幼かった内藤さんに語ったことや、戦時中、京都府職員として府民を「満州」の開拓に送り込む業務をしていた作家の水上勉が戦後反省していことなどを紹介。反省していない日本政府を厳しく批判しました。

戦争告発封じ込める政治的狙い

 柿田さんは赤旗記者の体験を交え、「日本遺族会の歴史と平和遺族会運動」をテーマに講演しました。日本遺族厚生連盟が53年、政府指導で財団法人日本遺族会に再編された背景には、遺族運動を政府の庇護のもとに置き、遺族による戦争告発を封じ込めるという政治的狙いがあったこととし、再編後、時限立法による各種の給付金を遺族に与える一方で、遺族会会長には遺族でない自民党幹部が会長に就き、自主憲法制定を唱え、運動方針に自民党入党を掲げるなど、遺族に自民党支持を押し付ける運動体になったと指摘しました。

 85年、中曽根康弘首相(当時)による靖国神社への初の公式参拝に対する遺族の批判が強まるなか、翌年、平和遺族会が、▽再び戦没者と遺族をつくらない▽遺族の生活向上と親睦▽侵略戦争への反省にたった遺族行政▽公正・民主の遺族行政―を掲げて結成されたことを紹介。平和遺族会結成の意義として▽遺族自身による遺族運動の誕生▽民主勢力の中で遺族運動が初めて市民権を得た▽遺族行政の窓口一本化を打ち破った—などを挙げました。戦没者の遺言である憲法9条にもとづく日本社会の実現や、戦争遺族が戦後の自らの体験を語って戦争の悲惨さを伝えていくことなど、ますます平和遺族会運動が必要となっていることを強調しました。