■西郷や松陰を立役者にして

 昨年から、明治維新から150年目ということで山口県や鹿児島県では西郷隆盛や吉田松陰らを明治維新の「立役者」とする観光開発が、自治体と民間が一体となって進められています。

 「明治100年」のときは、高度成長を背景に「日本を一直線の発展・栄光の歴史ととらえ、その間の起伏を無視し、すべてをバラ色」(家永三郎)とする近代化賛美論が展開されていました。このような「明治100年」史観を批判する運動が、「建国記念の日」不承認運動とともに各地で展開されていました。しかし「明治150年」で政府は「明治の精神に学び、日本の強みを再認識する」ことをねらいとしています。

■改憲策動と結びついて

 「明治150年」史観も、「明治100年」と同様に、日本近現代を発展・栄光の歴史と捉えるという点では同じ文脈ですが、「明治150年」史観は改憲策動と直結していることに注意する必要があります。日本会議20周年記念大会(昨年11月27日)で、安倍首相は「自由民主党は国民に責任を持つ政党として憲法審査会における議論をリードし、その歴史的使命を果たす」というメッセージを出しています。

 「明治の日推進協議会」の推進する「明治150年を記念するシンポジウム」(昨年10月29日)では「神武建国の原点に立ちかえろう」とアピールし、明治維新は「単なる政治体制の変革」ではなく、欧米列強の圧力に屈せず、「国家としての独立を保ち、民族の精神を高め」たことに特別の意義を与えています。そして明治天皇の誕生日である11月3日を「明治の日」とすることを呼びかけ、明治天皇を持ち上げ「明治天皇御親祭」など「奉祝」行事のキャンペーンを行ってきました。

 「明治100年」の際には、政府の会議で「過去の過ちを謙虚に反省」を明確に位置づけていました。しかし、「明治150年」史観は皇国史観を前面に「明治の意義」を特別に位置づける、偏狭で歴史の事実を歪める歴史修正主義的な自国中心史観になっています。

 それは次の安倍首相の70年談話での日露戦争に関する部分に典型的に表れています。「植民地支配の波は、19世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」

 しかし、五百簱頭(いおきべ)薫・東大教授が昨年11月16日付の「毎日新聞」に「政友会の原敬や伊藤博文など開戦を望まないものが過半を占めており、開戦を唱えた三宅雪嶺も開戦に至ったのは引っ込みがつかなったに過ぎない」と寄稿しているとおり、日露戦争が必然であったわけではありません。

 世界史的には日露戦争は英米、独仏露など植民地支配をめぐる帝国主義国の対立のなか、日英同盟を背景に英米の手先として戦った帝国主義戦争であり、日露戦争の結果、日本は朝鮮を完全な植民地とし、欧米の承認の下、帝国主義国として中国への植民地獲得競争に突入していきます。こうして日中戦争、アジア太平洋戦争へと戦争を拡大し、アジアの人々に大きな犠牲を与え、日本をも破滅させたのです。

 また、「日露戦争がアジアの人々を勇気づけたというが、日露戦争のすぐあとの結果は、一握りの侵略的帝国主義国のグループに、もう一国(日本)をつけ加えたというにすぎなかった。そのにがい結果を、まず、最初になめたのは、朝鮮であった」というネルーの言葉を思い起こす必要があります。

■「栄光」で覆い歴史を正当化

 明治に特別の意義を見出し「明治の精神に学び、日本の強みを再認識」しようとする背景には新自由主義の下、グローバル競争による自己責任、軍事優先と低福祉の押し付けによる社会の分断の危機があります。これを大国主義的「栄光」の中に包み込むだけでなく、「それでも日本人は立派に生きてきた」(片山杜秀、『近代天皇論』集英社新書)というイデオロギーを押し付けるのが「明治150年」史観なのです。

(写真=内閣官房「明治150年」関連施策推進室のホームページ

(「週刊京都民報」2月11日付より)