■普通の市民は関係ないのか

 「共謀罪」(テロ等準備罪)法案をめぐって国会内外で激しくせめぎあいが続いている。そのなかで、こんな声をしばしば耳にする。「自由がおびやかされると叫ばれているが、自分たち普通の市民には関係ないことだ・・・」と。はたしてそうだろうか。

 たしかに、戦時中の体験に照らしても、そういう局面はあった。当時、小学生だった私は、親たちが井戸端会議で、結構、天皇の悪口を言っているのを耳にしたことがある。学校でそんな話をしたら、先生にどなられたが、なぐられたりはしなかった。

 だが他方、近所に昼日中、ブラブラしているおじさんがいたが、祖母の話では、「あの人はアカで失業しているのだよ。何をしてもいいが、アカだけは気をつけろよ」とよく言われた。天皇の悪口をクチにしつつ、他方でこんな戒めを説く普通の市民が私の親たちであった。彼らは「自由を奪われている」とは思っていなかったかもしれない。

 だが、そんな普通の市民であると思っていた私の親たちは、望んでもいなかった戦争の渦潮に巻き込まれ、敗戦の日直前の甲府大空襲によって、家も家財もすべて灰燼(かいじん)の憂き目に遭った。そこには、奴隷主にはどうでもよい「自由」は許されても、根本的な運命は自由にできない「奴隷の自由」しかなかったのだ。

 こんな問題を考えつつ、ふと40年以上も前の「ドイツ現代史学会」におけるホットな大論争を思い起こした。その頃、ナチス研究に関連して「ナチス支配の時代にも結構、自由があった」という新学説が浮上していた。

■ナチ支配下に自由あった?

 ナチスの支配下にあっても、民衆は結構、自由に勝手な言動を享受していたというのだ。そしてナチ支配下の民衆生活は自由なき圧政のもとにおかれていたという通説の見直しが主張された。日本でもこの「新説」がかなりの注目を浴びていた。そこで当時、学会の事務局を担当していた私はこの問題のシンポジウムを計画した。

 そのとき、論戦の一方の極に立っていた温厚で保守的なある著名な研究者の主張は、私に鮮烈な感銘をあたえた。その論旨の核心はこうだ。

 「どんな専制権力にも限界がある。権力は、民衆生活の心の奥底まで圧政のもとにおくことなどできはしないのだ。そこには権力というものの限界があるのだ。しかし、だからといって民衆に自由があったなんて言ってはならない。そこにあるのは『奴隷の自由』であり、『人間の尊厳』は失われているからだ」

 会場は一瞬、シーンと静まりかえった。保守とか革新とかという政治の表層ではなく、権力とはなんだ、人間の自由とはなんだ、こうした根本問題をしっかと考え続けているひとりの学者の確固たる姿勢に私も感動した。

 結論を言おう。わが先輩学者の確信にあやかっていうならば、いま私たちの立ち位置は、「共謀罪」法案という土俵において、権力者集団がとっくに投げ捨ててしまった「人間の尊厳」という旗印を掲げて、「奴隷の自由」を断固として拒否することである。

(「週刊京都民報」6月11日付より)