2010年は、日米安保条約が改定されて50周年の節目の年です。1972年の沖縄返還の原動力は、沖縄県民と、それと連帯した本土のたたかいでした。京都では、府民のたたかいが大きく広がり、これと結んだ蜷川民主府政の行動が京都と全国の運動を励ましました。歴史的たたかいを振り返ります。

 1952年4月28日に発効した旧日米安保条約は、沖縄を日本本土から切り離し、米国が引き続き沖縄の軍事的使用を確保することを可能とするものでした。53年には、土地の強制収用手続きを定めた「土地収用令」を米国民政府が公布。強制的な土地接収により新たな基地建設を開始し、沖縄県民は土地強奪に反対する「島ぐるみ闘争」を展開していきました。

京都の青年団が運動の口火切る

 この沖縄県民のたたかいに連帯して早い段階で行動を起こしたのが、京都府青年団連合会(京青連、西山秀尚団長)でした。
 「現地百万同胞はひたすら日本に復帰し、日本同様の自由と人権の享受を切望している。われわれはかかる現実を座視するに忍びず、ここに全国民の同胞愛と世界の正義人道に訴え、速やかにこれらの諸島が一日も早く日本に復帰されんことを要望するものである」(決議文)
 53年5月の日本青年団協議会(日青協)第3回定期大会で、京青連が他県団と連携して「沖縄の日本復帰運動の展開」を求める決議文を提案。大会は、満場一致で復帰運動を全国的に展開していくという決議文を採択しました。この決議文は、日本本土であがった沖縄返還運動の第一声となりました。
 日青協は沖縄視察団の派遣を連続して実施。沖縄の実態を訴え、他団体に呼びかけて「沖縄返還国民運動協議会」を結成(55年11月)。これにより全国的な沖縄返還運動が始まりました。

たたかいを知事が激励

 沖縄では59年1月に祖国復帰促進大会を開催。これに連帯して日本本土では、旧安保条約の改定に反対する安保闘争が準備されました。
 京都では59年5月、京都総評・民主団体・社共両党など58団体で「平和と民主主義を守る京都共闘会議」(平民共闘)が結成され、大規模な安保改定阻止の統一行動が連続して取り組まれました。こうした運動を、当時の蜷川虎三府知事は激励しました。
 旧安保条約改定の国会承認をめぐり安保闘争が緊迫した60年6月。第17次統一行動(4日)では、蜷川知事が、府職労の2時間の合同職場集会・政治ストに参加するとともに、円山音楽堂での集会で激励演説を行いました。新安保条約の自然成立(19日)に抗議して約2万人が雨中デモを行った安保不承認抗議統一行動(22日)では、府庁での様子をマスコミがこう報じました。
「とくに府職では蜷川知事も参加して、全府職員的な講演会を開き、注目された。府職では午前九時から民生会館で京都府職員互助会と共催で『憲法に関する文化講演会』を開いた。…松尾(企画)管理部長、浜田農林部長、紙谷土木建築部長、足羽商工部長らの管理職も顔をのぞかせ、窓口事務の職員、各課数人の保安要員を残して約千人が参加したため、本庁はカラッポ。蜷川知事が『こうした異例の集まりを開かねばならぬほど憲法の精神がふみにじられている』とあいさつ。末川博立命館総長の『人権意識と民主政治』井上清京大教授の『日米関係百年―新安保と歴史的背景』の講演を聞いた。…」(「京都」22日付)

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京都の塔建立と 共同アピール

 新安保条約は日米共同作戦の条項を盛り込んだ軍事同盟条約に変えられましたが、沖縄返還のたたかいはいっそう高揚しました。
 戦争の惨禍と沖縄県民の苦闘。64年4月29日、蜷川知事は、太平洋戦争末期の沖縄戦で京都府出身の2536人を含む多くの日本軍と住民が米軍の残虐な攻撃で殺害されたことを悼み、京都府出身戦没慰霊碑「京都の塔」を現地に建立しました。米軍普天間基地を一望できる宜野湾市・嘉数高台(かかずたかだい)。沖縄戦の主戦場の一部です。
 碑文は蜷川知事が書いたもので、「多くの沖縄住民も運命をともにされたことは、誠に哀惜に絶へない。…再び戦争の悲しみが繰りかえされることのないようまた併せて沖縄と京都を結ぶ文化と友好の絆がますますかためられるようこの塔に切なる願いをよせるものである」としています。
 京都の塔建立に続いて蜷川府政は、京都府出身戦没者の沖縄慰霊祭(6月)の参加者の座談会「悲劇の島・沖縄を見て」を実施。「府政だより資料版」(7月25日発行)で座談会の中身を詳しく伝えました。
 半年後の65年2月には米軍機が北ベトナムのドンホイを爆撃(北爆開始)。ベトナム侵略戦争反対の世論とたたかいが広がり、沖縄返還闘争と一体となって繰り広げられました。
 こうした中で蜷川知事は、23回目の終戦記念日を前にした68年8月14日、京都府庁で、1年余り前に当選した美濃部亮吉東京都知事とともに、沖縄返還を求める「沖縄をわれわれの仲間に」とのアピールを発表しました。有名な「蜷川・美濃部アピール」です。(つづく)