1949年から50年にかけて日本共産党員、およびその支持者を「国家・企業の破壊者」と見なして強制的に追放した事件―レッド・パージ。60年目の今年、不当な事件の真実を語り、名誉回復を訴える人たちの証言をたどります。

大阪中央電信局─清算すべき戦後最大の歴史的汚点

 京都市右京区の妹背義次(84)さんは1950年、大阪でレッドパージを受けてから京都に来て以来、だれにも打ち明けずに過ごしてきました。「レッド・パージをたたかう人がいるなら、私も加わりたい」。60年目の名誉回復を訴えます。
 レッド・パージは、核密約と並び、精算しなければならない戦後最大の歴史的汚点だと思います。日本が法治国家でないことを示した事件です。
 私は1950年、大阪の中央電信局でレッド・パージを受けました。ある日、課長が私を含む20人の社員を1人ずつ呼びました。「君を解雇する」の一言のみ。理由を聞いても「理由はない」「とにかく切る」の一点張り。
 戦時中の1943年に入社以来、空襲をくぐりぬけ、戦後の混乱期も電報の管理などの仕事をまじめにやってきたつもりです。
 電信局では戦後すぐ労働組合が結成され、当時、労働者はみな組合に入るのが当たり前の状況でした。46年2月1日の組合結成大会では、インフレに対応した賃上げや通勤費全額支給、女子従業員の差別待遇撤廃などを方針として掲げ、ゼネストに参加しました。
 1年後に「労働組合のたたかいを前進させるなら共産党に」と入党しました。選挙以外に日常的に目立った活動をしていたわけではありませんでしたが、なぜ私が首切されたのかわかりません。
 首切された組合の仲間らは「反対してたたかおう」と励ましてくれました。前年からすでに組合幹部を中心にレッド・パージが強行されており、反対の声はかなり強くなっていました。
 パージされた仲間は職場復帰を訴えており強くたたかっていましたが、私は結婚もしたてで貧しかったので、すぐにでも飯が食べれる職を見つけなければなりませんでした。幸い叔父が経営する京都の友禅染業会社に職を得て、そこで60歳の定年まで働きました。定年後は西陣民主地場産業振興会の事務局を20年務めました。
 レッド・パージのことは日々の生活に忙しく、打ち明ける機会がないまま60年経ちました。
 ところが昨年、レッド・パージの名誉回復を訴えてたたかっている人を知りました。勇気をもらいました。
 共産党の支部のメンバーに初めて打ち明けました。みなさん「へー」と驚いていました。レッド・パージなんて、知っている人は多くないですからね。できれば私も60年前にたたかいたかったという思いがあります。
 これから、レッド・パージについて政府が認め、謝罪するところまで世論が広げるのに、私も一助したいですね。