「革新・山科の会」「山科平和を守る会」「山科・戦争の爪痕、調査・ワーキンググループ」が17日、第2回の「山科の戦跡めぐり」を行いました。暑い中、日本共産党の原俊史京都2区代表、本庄たかお前府会議員、北山ただお京都市会議員ら19人が参加しました。
 勧修寺東栗栖野町にある坂上田村麻呂の墓を訪れ、そこの公園にある「忠魂碑」を見学しました。裏面には「合祀 日清日露戦争 支那事変 大東亜戦争 戦没者殉国英魂 昭和30年3月」と書かれ、戦後になって追加されたものと思われます。「忠魂碑」と「慰霊碑」の違いは、一般に「忠魂碑」は支配する側が建てたもので、「慰霊碑」は民衆の側が建てたものだそうです。
 東野の「三之宮神社」にある「慰霊碑」を見学しました。「碑」は戦後50年に建てられたもので、「祖国の防人として今日の平和と繁栄の礎となられた当村出身の多くの戦没者に対して謹んで哀悼の意を表しその遺徳を顕彰するとともに…常しえの平和をお誓いするものであります」などの文字が刻まれています。
 また、戦時中伏見にあった国立病院の分院となり、特攻兵や戦病者の治療がおこなわれたという話がある勧修寺の寝殿(1697年に御所から移築)を見ました。
 山科に空襲はありませんでしたが、まだまだ多くの戦争の爪痕が残されているようです。戦争は何も責任がない市民に大きな人的、物的被害を被るものだと改めて思いました。(高山三千男)