狂言の活況をもたらす

 今や各地で狂言会が開かれ、狂言は人気の高い芸能ですが、戦後しばらくはそんな状況ではありませんでした。能、狂言は市民には知られておらず、演能会は日曜に開かれる程度でした。
 狂言ではメシが食えないので、茂山家では、代々長男しか狂言師を継ぎませんでした。千之丞さんは、次男でしたが狂言師となり、狂言でもメシが食えるように、新しいことに挑戦しました。
 戦後すぐに兄の千作さん、父の先代・千作さんと学校公演を始め、関西、山陰、中国地方に足を運びました。分かりやすい狂言で、子どもの関心を引き、未来のファンを作ったのです。さらに、京
都では革新市政が提案した市民狂言会に協力し大人のファンをつかんでいきました。
 いまや千五郎家だけで、21人の狂言師が活躍しています。現在の活況をもたらした功労者です。
 また、狂言が能の付随物と見られていたときに、それに異議を唱え、能からの自立をはたした人でもあります。「能と一緒にのたれ死にたくない」と狂言だけで客を呼べる芸能にしようとしました。
 千作さんと双発エンジンの飛行機のように活動して狂言師の力量を高め、能楽師にそれを認めさせました。千作さんが人間国宝となり文化勲章を受章したのは象徴的なことです。千之丞さんも人間国宝となるべき人でした。(「週刊しんぶん京都民報」12月26日付)