2010年は、日米安保条約が改定されて50周年の節目の年です。1972年の沖縄返還の原動力は、沖縄県民と、それと連帯した本土のたたかいでした。京都では、府民のたたかいが大きく広がり、これと結んだ蜷川民主府政の行動が京都と全国の運動を励ましました。歴史的たたかいを振り返ります。

沖縄返還と安保廃棄を一体で

 沖縄返還闘争は、日米安保条約(日米軍事同盟)廃棄のたたかいと一体で展開されました。
 1968年9月8日。沖縄をアメリカの施政権下に置くことを認めたサンフランシスコ条約と米軍の日本駐留を認めた旧安保条約の調印から17年目のこの日、安保破棄京都実行委員会は、京都市左京区の京都会館で、「安保条約『終了』通告要求、沖縄全面返還」を求める集会を開きました。
 集会は、「日米安保条約の『終了』通告を要求する署名運動を京都で百万人、全国で数千万人の署名運動として成功させ、一九七〇年にむかって六〇年安保を上回る一大国民運動をおこそう」との府民へのアピールを採択。これを受け、全府でいっせいに署名運動が取り組まれ、運動は急速に広がりました。
 蜷川虎三府知事ら京都の各界の50氏が呼応しました。9月25日、「安保“終了”通告署名の推進センターの設置」を提唱する「よびかけ」を発表。理由をこう述べました。
「私たちは、日本の独立と安全、平和と中立を願うためにみんなが力をあわせて全国民的運動をもりあげ、あらゆる妨害挑発行動をうちやぶって全民主勢力の共同闘争を実現し、安保条約に反対する民主的な政府をつくり、終了通告によって日米安保条約を廃棄することがどうしても必要だと考えます」

主席当選の屋良さんが京都入り

 安保“終了”通告署名運動が全国的に展開される中、沖縄初の琉球政府主席公選が11月10日に行われ、革新統一候補の屋良朝苗さんが当選しました。
 屋良主席は12月17日京都入りし、約1000人の府民が参加して府庁玄関前広場で開かれた歓迎集会(日本共産党、社会党、京都総評、府職労の4団体主催)に臨みました。演壇には「本土、沖縄の民主勢力の統一と団結万歳、沖縄の即時無条件全面返還、安保条約破棄」のスローガン。
 熱烈な拍手と「沖縄を返せ」の大合唱の中を、手を振りながら姿を見せた屋良主席は、出迎えた蜷川知事、富井清京都市長、末川博立命館大学総長らと固く握手をしながら、歓迎の人びとに訴えました。
 「私の勝利は沖縄県民をはじめ、全国の奮闘に支えられて勝ち得たものです。本土の国民が沖縄返還を全国民の課題として取り上げることを期待します」

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蜷川知事が反対の論陣

 日米両国政府による沖縄返還交渉、安保条約延長には、国民・府民の反対運動に呼応した京都・蜷川、東京・美濃部亮吉、大阪・黒田了一の3革新知事連名の批判声明(71年5月31日)だけでなく、蜷川知事が繰り返し反対の論陣を張りました。
 「日本の体制は二重体制です。憲法と安保体制が重なり合っている。ところが憲法体制というものが弱くなりうすらいできて、安保体制が強く前に出てきている。これは戦争への道であるということです」(70年5月27日、府部課長・公所長会議での訓示)
 「沖縄県が、26年の平和条約締結とともにかえることを、占領が解除されることを期待し、…アメリカの帝国主義的な侵略の一つの基地に使われたということは、甚だ遺憾であるばかりでなしに、沖縄県民に非常に不幸である」(71年7月7日、府議会本会議での日本共産党議員への答弁)

「沖縄に苦しみがなくなるか」

 72年5月15日、「沖縄返還協定」に基づく「沖縄返還」が実施されました。同協定は、無条件全面返還という国民的要求を踏みにじり、施政権だけの返還にとどめ、引き換えに米軍基地の存続、アメリカの極東戦争計画への協力を押しつけたもので、安保条約の事実上の改悪を意味するものでした。
 この日、蜷川府政は“沖縄を考える日”としました。蜷川知事は、琉球放送を通じて屋良主席にメッセージを送りました。同時に、土曜日で“半どん”の府庁では午後から、府職員会館で沖縄講演会を開き、「沖縄と憲法」と題して講演しました。
 「『沖縄が本土復帰によって、これからいっさいの苦しみがなくなり、平和と自由な“独立国”の中で暮らせるかどうかを考えるとなにか暗たんたる気持ちにならざるをえない。“おめでとう”とはいいにくいが、沖縄県民とともに事態をよく認識し、私たちが世界に約束した“平和の道”“憲法の道”をしっかりと進みたいと思う。自治体沖縄県の新しい出発を祝福する』と述べた」(「京都」5月16日付)

「キビ」「やかましい」発言

 「沖縄返還」から6年後。民主府政から自民党府政になると、知事の姿勢が180度変わりました。
 「沖縄では台風でサトウキビが倒れ、国体警備がやりやすくなる」。87年9月1日、荒巻知事は府庁での記者会見でこう発言しました。“基幹作物の被害で困っている農民、県民より警備の方が大事”というもので、この日は「防災の日」でした。これが新聞報道された沖縄県では大問題となり、同知事が急きょ沖縄を訪れて自民党の西銘順二県知事や県農協中央会会長らに陳謝するという前代未聞の事態に発展しました。
 また、88年6月24日には、前任知事の林田悠紀夫法相が、閣議後の記者会見で、沖縄の米海兵隊の飲料用水ダムでの湖水訓練など、米軍演習強化に対する県民世論や地元紙の報道について、「沖縄にはいつもやかましく言う人たちがいる」と発言。沖縄戦終結の43周年記念日(6月23日)の翌日でした。
 沖縄では同県議会各党が「県民への挑戦だ」「即座に更迭すべき」と猛反発。西銘知事も遺憾表明をするなど、厳しい批判を浴びました。
 現在の山田啓二知事はどうか。アメリカの先制攻撃の戦争であるイラク戦争に、憲法違反の自衛隊派遣をすることについて、「世界の平和と安定につながるものであると考えている」(03年10月1日の府議会本会議での日本共産党議員への答弁)と発言。イラク戦争では、沖縄が米軍の出撃基地となり、米軍と自衛隊による事実上の日米共同作戦が行われたのに、これを容認しました。
 沖縄県民の願いに心を寄せない自民党知事に対し、蜷川知事の姿勢は際立っています。
「われわれも屋良さんと一緒に、沖縄県民を守り、また日本列島の国民一億が一体となって、アメリカの基地の撤廃と安全保障の撤廃と、そして日本をほんとうに平和小国たらしめたいと思うのです」(72年6月28日の府議会本会議での日本共産党議員への答弁)
(おわり)