素敵な笑顔を心待ちにする

倉林明子物語(4)

 1992年4月。右京病院(現・京都民医連中央病院)2階。主に慢性疾患を抱えた高齢者が入院する「西2」病棟。吉村とめさん(79)=当時・仮名=は、この日も心待ちにしていました。高血圧症や骨粗しょう症による骨折などで2年前から入退院の繰り返し。退屈な入院生活の中で、楽しみは週2回のお風呂。いつも介助してくれる快活な看護婦さん。病室に来ると雰囲気がはなやぎました。「さあ、準備できたよ。さっぱりしようか」。入浴後、体も心も元気になりました。「笑顔の素敵なええ看護婦さんがいはるんよ」。お見舞いに来た娘さんに口ぐせのように語って聞かせました。それが倉林さんでした。
 94年4月の府議補選に立候補するまで、11年間務めた看護師という仕事は自他ともに認める天職でした。
 若年性認知症の「えいちゃん」は、病棟看護師の間で悩みの種でした。トイレの場所が覚えられず、廊下で失禁。夜は暗い病室が怖くて院内を徘徊。廊下で用を足しても注意口調でなく「ちゃんと出たね」とやさしく声を掛け、深夜1人で寝付けない時は、添い寝するようにして背中をさすりました。朝まで付き添うこともありましたが、翌朝の引き継ぎ準備はいつも万全。「倉林さんは2人いる」。同僚は感嘆しました。

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患者本位貫き信頼厚い存在

 診療方針をめぐって衝突することもありましたが、医師からは信頼の厚い存在でした。
 高アンモニア血症で入院していた岩田実さん(仮名、当時70代)。近く産まれる初孫の顔を見ることを何よりも楽しみにしていました。しかし、症状が悪化し、寝たきりに。血液透析を受けるため、1階上の透析室へ車いすで移動するのも体に負担がかかりました。「透析装置を病室に持ってくればいい」。倉林さんの提案に神田千秋医師(現・中央病院総合内科科長)は困惑しました。高さ1.5メートル、重量50キロ以上もある精密機器で本来固定して使うもの。無理に動かせば故障の恐れもある――「それでもお願いします。少しでも元気になって、お孫さんの顔を見られるようにしてあげたいんです」。必死の訴えに、神田医師は透析装置の移動を認めました。
 87年、右京病院に府内2番目となるリハビリテーション病棟ができました。当時、副主任。一般病棟と違い、理学療法士や作業療法士などリハビリ専門家も加わり、日常生活への復帰を目指した「見守る看護」が求められます。門祐輔医師(現・京都民医連第二中央病院院長)の指示のもと、看護師の動き方から診療器具の置き場所まで差配しました。当時婦長だった橋本節子さん=中央病院副院長=は述懐します。「患者から医師、看護師、事務職員まで現場すべてを把握できていた彼女がいたからこそ、リハビリ病棟立ち上げは成功しました」。

協力し合って2人を子育て

 西小路三条の自宅マンション。当時小学2年生の長女・広実さん(27)は帰宅して、驚きました。昨晩、2つ上の兄(丈実さん)ととっくみあいのけんかをして目茶苦茶だった部屋がきれいに片付いていました。冷蔵庫にはご飯とおみそ汁、イワシの蒲焼き、ほうれん草のおひたし。兄妹の好物でした。ダイニングテーブルにメモ。「今晩も夜勤です」。
 看護師入職2年目で長男を出産。同時期に出産した同僚看護師らと協力し合いながら子育てしました。同じマンションに住んでいた看護師の白子まき子さん(58)は、「仕事は忙しいし、私なんかすぐ怒っちゃうけど、倉林さんは感情的にならず、子どもたちを1人前に扱っていました」と言います。
 広実さんも現在2児の母。「人のために私心なく働くことを貫いてきた。いつも一生懸命過ぎるから、体に気をつけて頑張ってほしい」(「週刊しんぶん京都民報」2013年3月10日付掲載)