1982年春。「ぺー(三瓶)さん、こっちこっち」。晴着姿のクラスメートが手招きします。京都市立看護短期大学第26期卒業式。紺色のワンピースで集合写真に収まる三瓶(倉林)さん。卒業アルバムの寄せ書きにこう記しました。「10年後に晴れ晴れと自分を語れるようでありたい」――福島を離れて3年。「看護師になるため、やるべきことをやりきった」と振り返る大学生活は、日本共産党員として不屈に生きる父と同じ道を歩み始めた日々でもありました。

綱領に出会い感動して入党

 いっせい地方選前半戦の京都府・市議選真っただ中の1979年3月。わずかばかりの着替え、日用品を詰めた“ずた袋”を背負い、京都駅に降り立ちました。七条大宮の下宿先まで歩く道すがら、軒並み張ってある日本共産党のポスターを見てびっくり。「こんなに張ってあるものなのか。京都はすごいな」。京都に来ての第一印象でした。
 午前9時から午後4時過ぎまで大学の講義。午後5時過ぎから病院の皮膚科や産婦人科で看護助手のアルバイトです。午後9時過ぎ、帰宅して勉強。休日は宿直のアルバイトもしました。高校時代と同様に、仕送りはありません。こんな毎日がすぐ始まりました。
 入学後間もない5月、民青同盟と出会います。勧誘したのは友人の加藤裕子さん(52)。日本共産党のことを学べる――加藤さんの言葉に、父の姿を思い浮かべました。「貧しくても、周りの偏見があっても、真っ直ぐに生きている父の原点を知りたい」。2つ返事で加盟しました。
 この年の12月、日本共産党に入党。「社会は変わるし、変えられる」。科学的社会主義の世界観に強くひかれるとともに、貧困をなくし、1人ひとりの能力が発揮できる社会を目指すことが明記された綱領に、感動しました。

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友人、後輩の世話が大好き

 大学、アルバイト、日本共産党・民青同盟の活動。どれも手を抜かない。「三立の女」はここでも健在でした。同級生の吉田律子さん(52)=市立病院看護師=は、「苦労を苦労とせず、サラッとやってのけるたくましさがあった」と評します。
 頑張り屋で、世話好き――友人、後輩は口をそろえます。深夜に始まった民青同盟の班会。朝方、倉林さんの作る温かいシチューのにおいで目を覚ましました。市看班で指定文献の読み合わせに集中して取り組んでいた時、班会を休んだ後輩の家を、アルバイト帰りに訪ねました。「1人で読むのは大変やろ。一緒に読もう」。
 民青同盟に誘った加藤さんは一時、学校に通えない時期がありました。「そんな時、『西(旧姓)、一緒に住もう』って言ってくれて。毎朝起こして学校に連れて行ってくれたし、お弁当も持たせてくれました。うれしかった」。

値上げ反対の運動を励ます

 3年生の秋。京都市が突如、次年度から全国一安かった授業料(7万2000円)を倍近い13万2000円に値上げすると発表しました。併せて、入学金(1万円、市外3万円)、試験料(5000円)も倍にするというのです。
 市看自治会は即座に反対運動を始めましたが、自治会活動の経験豊かな3年生は役員を退任していました。そんな時、倉林さんら元自治会役員の3年生たちが駆けつけました。「値上げ反対の声明文を出して、市と市議会に申し入れをしよう」。京都市議との面談約束の取り付けや署名用紙の作成など、運動を励ましました。当時、自治会役員を務めた後輩が言います。
 「看護短大の3年生は実習や国家試験の勉強で大変なんです。でも、全面的に支えてくれました。その真ん中にいつも倉林さんがいました」(「週刊しんぶん京都民報」2013年3月3日付掲載)