1949年から50年にかけて日本共産党員、およびその支持者を「国家・企業の破壊者」と見なして強制的に追放した事件―レッド・パージ。60年目の今年、不当な事件の真実を語り、名誉回復を訴える人たちの証言をたどります。

関西配電 京都支店─労働運動を大きく後退させられた日

 関西電力の前身である関西配電と日本発送電の労働者が一つに結集した日本電気産業労働組合(電産労組)は、当時の日本の労働運動の中心を担っていた産業別労働組合の一つでした。その電産労組にレッド・パージが牙をむいたのは、1950年8月26日。京都ではいっせいに63人が解雇され、うち50人が関西配電の労働者でした(「総評京都地評30年運動史」より)。首切りは「上の命令」と一方的に強行されたもので、当時、電産労組関西配電京都支店分会の書記長だった高橋昭三さん(81)=元京都府議=は、「労働運動を大きく後退させ、日本の革新的民主的エネルギーに打撃を与えたもので、許せない」と語ります。
 あの日、組合執行委員が応接室に集められ、「諸般の事情で解雇します」と宣告されました。執行委員全員ではなく共産党員だけを呼び出したもので、私らは「レッド・パージだ」とすぐにピンときました。すぐさま、「私たちが何をしたんだ」「思想を理由に切っていいのか」「ちゃんとした理由を説明しろ」と詰め寄りました。応接室には怒号が飛び交いました。
 後日、労組として正式に団体交渉を申し込み、再び応接室に集まりました。会社側の説明は、「上の命令ですので、私どもはうかがい知れません」。何度聞いてもその一点張りでした。「上とは誰や。本社か」と厳しく追及すると会社側は、「会社の方針だけでなく、『もっと上の命令』なんです。どうしようもない」とポロリと言いました。「上」とはGHQからの命令だったのは明らかでした。
 私は当時、電産労組の関西配電京都支店分会で書記長をしていました。1948年入社した私は、直後に労働者の権利向上のたたかいの中で、「たたかうなら共産党だ。入党したい」と頼み、日本共産党に入党しました。その後、労働者として新入りでしたが、役員に選任されました。前年から官公庁などでレッド・パージが始まっていましたから、「今組合活動をやれば昇進はない」とまわりはびびりだしていました。「こんな時こそ共産党員の自分が労働者の先頭で要求実現に尽力するぞ」と意気込んで、職場の要求聞き取りに奮闘したことをおぼえています。
 レッド・パージのうわさが流れ出した時、一般の労働者から激励をもらいました。「共産党員はつねにたたかいの先頭にいる」という信頼がありました。
 電産労組は、労働運動の中核を担っていました。しかし、当時の産業別労働組合京都会議(産別京都会議)の議長をしていた日本発送電の浅川亨さん(後に共産党府議)や関西配電で電産労組京都支部委員長をしていた井上武夫さん(後に日本共産党京都府委員長)ら、日本共産党員が次々と首を切られました。その結果、組合は労働者の要求を正面から取り上げてたたかうことがなくなり、労働者の支持を急速に失っていきました。
 レッド・パージの後、私は中小企業団体の職員、役員などを経て、府会議員になりました。
 この60年を振り返ると、国民の要求をよく聞いて、実現の先頭に立つことが重要だということです。国民の要求を先送りする民主党は支持率が下がっていますね。日本共産党は国民から厚い信頼を寄せられる組織づくりに励んでいますね。今年の府知事選と参院選に勝利したい。