両校の選手代表が前に進み、記念品贈呈、花束贈呈の後、来賓が紹介される。高野連副会長、OB会会長の後、第26回大会の優勝投手、清水宏員さんや第37回の優勝メンバー、主将の吉川鴻作さんの名が呼ばれると、ひときわ拍手が大きくなった。前松山商監督、最後は龍谷大平安校長だった。校長が来賓ということは野球部が主催ということなのだ。
 両校の校歌が演奏された後、チアリーダーがこの式典を締めるため、跳んだりはねたりして観衆を盛り上げた。創部100年にちなんで「100」の文字や平安の文字は漢字ではなく、カタカナで「ヘイアン」と表したのが今っぽい印象を受けた。
 試合前のノックは式典の前に終わっているので、いよいよ試合開始ということになる。この試合を取材するということで、色々と考えを回らせてきたけれど、うまくできるはずもないので、思うままに声を掛けてみることとなった。
 始球式の写真は撮らなければいけないのでバックネット最前列に行ってみた。両校が整列、あいさつが終わると、平安の先発投手がマウンドへと上がった。左ピッチャーだった。平安の歴代ピッチャーで印象深いのは、いつも左腕のような気がする。
 平安ベンチ前では先ほど紹介された、第26回大会優勝投手の清水さんがキャッチボールを繰り返していた。白髭をたくわえた清水さんは右投げだったが、当時のエースたちは右投げが主流だったのかもしれない。
 第37回大会優勝時にキャプテンだった吉川さんが小走りに右バッターボックスに入った。同じく小走りにマウンドに上がった清水さんはさすがだった。
 マウンドからは降りた位置からだったが、球審のプレーボールに、山なりに真ん中高めのストライクを投げていた。70歳を超えているのだ。まさに一球入魂の投球だった。
 バックネット最前列にいた71歳のおじいさんは「病気でなかなか来られない」と言いながら「今日はどうしても来たかった」とも言った。愛媛出身で、「京都、と言えば平安、愛媛、と言えば松商」と言い切った。松山商の出身というわけでも、野球をやっていたというわけでもないらしいが、高校野球が大好きで「春と夏は本当に楽しい」と。でも、西京極在住というのに、「京都でプロ野球の公式戦、オープン戦が少なすぎる」と穏やかに批判。言いたいことはたくさんあるようだった。
 「平安が強くならないと…、伝統校が甲子園で少ない…」。就職で京都に来られたおじいさんには息子さんが2人いるそうで、「40歳くらいですか?野球をされていたのですか?」と聞くと、「2人ともやってくれなかった」と少し悲しそうに言った。
 試合は、一死からストレートの四球で出塁させたものの左腕特有のけん制球で刺して、結果的に平安が松山商を三者凡退に打ち取り、1回表が終わった。「夏は暑い」とおじいさんは言ったが、この対戦が秋に行われて良かったと思った。暑くもなく寒くもない天気だ。
 バックネット最前列には、“野球”のファンが集まってくる。右隣に座る55歳のおじさんは、「1回ぐらい天敵・松山商に勝ってほしい」と言った。平安戦は「時々、観に行く」と言うこのおじさんは、いわゆる高校野球“通”だった。第51回(1969年)大会決勝、青森・三沢対松山商の延長18回の熱戦を引き合いに「平安とは国体でも引き分け再試合があった」ことや、「春夏とも松山商は平安に勝った次の試合で必ず負けている」という、ちょっと面白い、選りすぐりの情報を教えてくれた。
 こういう人に出会うともっと話を引き出したい、聞いてみたい。場所を動かずこのまま色々と聞いてみることにした。正確に言えば、動けなくなった。そして、それがまたその話が楽しかった。
 「ここ10年で公立高、特に商業高、工業高に社会的逆風が吹いている」という話は聞き逃せない。「全国でもこの10年で2回以上の出場は、福井商、宇部商業…、ぐらいじゃないかな」。この松山商の一番最近の甲子園での思い出を話すとすれば、第78回(1996年)熊本工業との決勝戦、「奇跡のバックホーム」なのだが、これは時々「ユー・チューブ」で観たりする。延長10回裏にサヨナラ負けを防ぐと、延長11回に勝ち越して優勝した。当時は、この試合の、あの場面で起きた、その高校生らしからぬ「驚くべきプレー」についての何か番組を観た気がする。
 でも、それも考えてみれば10年以上も前のこと。平安が甲子園で準優勝した前年だった、と言えば京都の人にはわかりやすくなるかもしれない。
 それを話すと、「松山商も7年前の平安戦のとき以来、甲子園には出ていない」と言い切る。手元に資料があるわけではないので「ああ、そうですか」とうなずくしかなかった。「平安は私立だからチャンスがあるけど…」。続く言葉は、「松山商は公立だから…」だろう。サードファウルフライを三塁手が難なくキャッチした後、最近の私立強豪校の話題となった。(つづく)
(写真=龍谷大平安・チアダンス部)