1949年から50年にかけて日本共産党員、およびその支持者を「国家・企業の破壊者」と見なして強制的に追放した事件―レッド・パージ。60年目の今年、不当な事件の真実を語り、名誉回復を訴える人たちの証言をたどります。

旧簡易保険局─解雇理由はただ一つ「共産党員だから」

 1950年の秋、旧簡易保険局の松ヶ崎支店(京都市左京区)に勤務し、労働組合の常任執行委員だった河本清さん(85)。自身のレッド・パージについて「実際の行動など関係なく、思想だけで首切を強行したもの。不当だ」と振り返ります。この年の5月3日の憲法記念日、GHQのマッカーサー最高司令官は共産党の非合法化を示唆する発言を行い、日本政府はレッドパージに、本格的に乗り出しました。
 同じ職場でレッド・パージにあった清水千鶴さんの記事を見て思い出しました。私も清水さんと同日に解雇されました。その日、課長から突然解雇を告げられました。私が理由を問いただすと、課長は黙ってしまいました。長い沈黙の後の課長の悔しそうなつぶやきが耳に残っています。「マッカーサー指令にもとづいている。仕事ができるから河本だけは切るなと、上には伝えていたんだが…」。
 翌日、みんなで抗議のために出社すると、「不法侵入」だと逮捕されました。私たちは職場から強制的に締め出されたのです。
 私は労働組合の常任執行委員で、職場の中心にいました。職場は年金課。たたかいだけではなく、公務も全うして人より多くの仕事をこなし、上司からも一目置かれる存在でした。
 およそ1年前、行政整理にかこつけて組合幹部だった共産党員がすべて切られていました。共産党員の中で組合幹部に残っていたのは私だけでした。マッカーサーの指令は、実際の個人の行動は問わず、「共産主義者」というだけで解雇を強行するものだったと思います。
 私がいなくなって労働組合は変質させられました。通常、解雇されても組合員として「解雇反対」とたたかうことはできるはずですが、組合は「あなたはもう公務員ではない」と私の訴えを聞こうともせず、支援しようという気もまったくありませんでした。
 結局、私は生活のために職場を離れざるをえませんでした。
 その後、京都信用金庫に入社しました。銀行の上司から何度も「銀行に残りたかったら共産党の運動はやめろ」と言われました。人の5倍も10倍も働きました。最後は関連会社の専務取締役に抜てきされるまでになりました。仕事もがんばり、同時に共産党員としての活動も私なりにがんばったからこそ、名誉ある役につけたと思います。
 先日の第25回党大会で品川正治全国革新懇代表世話人(経済同友会終身幹事)が「反共は崩れつつある」と発言されましたね。共産党がさらに国民から愛される党になるよう力を尽くさないといけません。私も住んでいる城陽市で革新懇に参加しています。こんな歳ですが、できることを一つずつやっていきたい。

※憲法記念日のマッカーサー声明 GHQ最高司令官のダグラス・マッカーサーは日本共産党を「脅迫と暴力」によって日本の政治指導権をにぎろうとしている集団と規定。共産党の非合法化を示唆した。吉田茂首相(当時)は同日、「マッカーサー元帥の見解に賛成」と表明。さらにマッカーサーは6月、共産党中央役員と機関紙「アカハタ」(現在の「しんぶん赤旗」)編集局員に追放指令。同月「アカハタ」は発光禁止にされた。日本政府はこのマッカーサーの声明や指令にもとづき、「公務員の“赤”追放は合法」と公務員と国鉄職員のレッド・パージを本格的に着手した。