脱線古事記

〈28〉弥生人と縄文人

弥生人と縄文人イラスト・中村洋子

 日本人が何処から来たどんな民族なんやちゅう話は、誰方(どなた)はんにも関心があり、興味を惹く事柄どっしゃろな。タイやカンボジア等の人々の中には日本人と区別の付かん顔の人が居やはって、祖先が同じと違うかて思いとうなる事がおす。
 こういう問題は文化人類学やら言語学やらで専門的に研究がされてるにゃと思います。ボクは大学で、日本語はウラルアルタイ語に属す膠着語やて教わりました。スオミ(フィンランド)語やモンゴル語や韓国語と兄弟やちゅうのどすな。
 一方で本で読んだところではコメ、マメ、ムギ、ヒエ等は印度洋沿岸からインドシナ沿岸等で古うは共通の言葉やったそうどす。
 こういう説がどれも正しいとしたら、少なくとも日本語については文法や文の構成に関しては北方系、単語には南方系が混ざってるちゅう事になります。それが早うに渾然としてしもて、今我々が使うてる日本語になってると考えると、恐らく無難ちゅう話になるのどっしゃろな。
 けどボクは、民族がどの系統かを考える時に言語の系統を援用するのに、単語を当てにするのは危険やと思います。例えばマメが南方系やとしても、それが日本語になってるのは、豆の原産が南であってそれが南から伝わり、それと同時に単語マメもやって来たとは言えても、マメと一緒に日本人がやって来たとは言えへんさかいどす。
 言葉の問題で、万世一系揺るぎないのは語序どす。前述の膠着語か屈折語か孤立語かちゅうのは語序程には当てにならんと思います。現に今の中国語では「的」を日本語の「の」のように使うてます。その点語序はなかなか変え難い。
 「乞御声援」を訳したら「御声援を乞う」どすが、近頃は「乞う御声援」と書かれてるのを屡々(しばしば)見ます。漢文式の語序でやってるつもりやと思うけど「う」が入ってるとこで尻尾を出してゝ、微笑ましい感じます。これは日本語の語序であって強調の言い回しどすな。「行こう!京都」と同じどす。
 日本人がどういう民族なのかを考える時には、はっきりしてる資料として、我々は縄文人、弥生人を眺めるのが一般どっしゃろ。その場合、証拠や証明を措いといて気分として考えるなら、先ず縄文人が全国又は西日本に居て、それを弥生人が東へ北へと追い詰めていったと考えると、何とのう辻褄が合うように感じるもんどす。
 この辻褄の後押しとして、たんとの人が利用しとう思うのが記紀の天孫降臨から神武東征の件りやおへんかいな。天孫降臨を弥生人が他国から日本へ来た経緯と考え、神武東征を弥生人が縄文人を追い詰めて行く話にしとうなるのと違いますか。
 もしそうやとすると長髄彦(ナガスネヒコ)は縄文人の頭領ちゅう事になります。ま、そううまい事いきますかいな。
 ところでその神武天皇の本名は神倭伊波礼畏古命(カムヤマトイワレヒコノミコト)どす。まだ高千穂宮に居る時に、もうちゃんと「神・大和・磐余・彦」ちゅう名を持ってたちゅう手回しのえゝ話。この辺が『古事記』の小説性の現れやと思いますけど、この本名の漢字を例によって原義で読んでみまひょ。
 次回に詳しう。

2010年8月12日 11:09 |コメント9
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水野恵 プロフィール
篆刻家。1931年1月、京都市生まれ。江戸期から続く御用印判司「鮟鱇屈」の流れを継ぐ水野鮟鱇屈3代目。幼い頃から父の師河井章石に薫陶を受ける。京都府立大学文芸学科卒業後は、書を木村陽山に、篆刻は園田湖城に就いて学んだ。俳句や水彩画も手掛け、篆刻・書とともに文人として四絶を目指す。元佛教大学四条センター篆刻講座講師。
著書は、『日本篆刻物語 はんこの文化史』(芸艸堂)、『印章 篆刻のしおり』(芸艸堂)、『古漢辞典』(光村推古書院)など多数。

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コメント

僕は、遊び半分で「修験道研究」をしています。「縄文と弥生」についても深い関心をもってこのシリーズを時々覗かせていただいています。
 僕の研究の基本的柱は、以下の通りです。

(1)神道・仏教と修験道との関係
(2)「上代」における朝鮮半島や中国大陸の文化の影響
(3)宇佐八幡神宮の成立過程と天皇支配の関係
(4)「ハレ」と「ケ」は、古来からの日本人の文化
(5)京都市の周辺地の特異な文化(「火祭り」・「上げ松」等)との関連

等です。調べていくうちにどんどん深みにハマっていく愉快さもあります。当然ながら、なかなかしんどい作業もあります。
 一定、纏まれば、このようなコーナー等でも発表し、皆様からのご教示を受けたく勝手に思っています。
 今後とも宜しくお願いします。

いつも楽しみにしている「脱線古事記」次は何のお話?毎回ワクワクです。

いつもの可愛いイラスト! うちのパソコンが壊れてる?ないんですけど…

書籍になるといいなあ。 

8月上旬、宇佐八幡宮に行ってきました。予想以上に収穫がありました。
自分のブログにボチボチ書き綴っています。
(1)宇佐神宮は、伊勢神宮より古い。国宝級の宝物が残されていました。
(2)国東半島は、今も神仏習合の寺社がほとんどです。
(3)古くから朝鮮半島・台湾・中国大陸等の東アジア圏の一角でした。
  日本列島では、一番早くから東アジア圏との文化交流がありました。
(4)霊山のひとつ英彦山との関係も深いようです。
 ボチボチ、まとめの段階に入っていますが、猛暑続きのせいで根気が落ちてきています。何とか、年内にはまとめていきたいとは思っています。友達には見てほしいと考えてもいます。

 最近、愛宕神社について、ちょっと調べてみました。

①鷹峯に愛宕神社があった時期があった。
②場所は、いまだに幻状態です。
③どうも千束町や北鷹峯町の辺りを「遷宮」していたように思えてきまし  た。
④当時の政治状況や経済構造とも深くかかわっていると見えてきました。

 もうちょっとフィルド・ワークがしたいです。

 この辺りのこと、いつまでたっとも興味が残っています。かつて「ピジン語・クリオール語研究と手話言語」という論文を中西先生と書くことになりました。
 いろいろ調べていくと、東アジア圏には、どうも共通の言語体系の源があったのかも知れません。
 今後、ゆっくり調べたい課題です。

 先日のセミナーで、像の話が出ました。日本には、ナウマンゾウ等もいて縄文人達は、力を合わせて、巨大な像を大きな穴に追い詰めて、捕まえて、飢えを乗り越えたそうです。この頃から、縄文語(アイヌ語に似ているとか?もちろん集落ごとに違った言葉!)が使われ始めたそうです。
毎日、同じように生活が繰り返せたなら、ほとんど言葉は要らなかった筈です。今でも高校生などは言葉なしで(「書き言葉」だけはつかっている。)生活している人が多いとか聞いています。
 弥生語となると、呪いとか農耕行事(祀りこと)に必ず言葉が必要でした。よりアイヌ語のように体系化されていったのかも知れません。余り文法は、なかったそうです。「すわれ。」「すすめ。」「こっち、来い。」程度だったのかな。
 僕は20年位前、今は故人となられた中西喜久司先生から手話でこの辺りのことを多く学べる機会がありました。今では、先生に感謝もしています。

 去年は、大真面目に「オタギ学」をやりました。8世紀頃の東アジア論でしたが、結構面白い発見もありました。しかし、暗い世界をも扱うので、辛い気分も背負いました。
 そして、この9月からは、「蟲と文化」に目線を合わせて、縄文時代だった人々の生活を明るく勉強してみます。

 あんなそんなで、最近は勝手ながらもかなり疲れ果てているのかな。
まあ、「近代経済史」の後輩から見れば、古代からそのような歴史があるようです。統計を示されば、成程と思ってしまいます。
 「統計経済学」の限界なのかもや知れません。現代は、数理統計学が主流なのかも知れません。「良し悪し」は、きっと別の次元でしょう。

 今年度は、「蟲と文化」を担当させて戴いております。ちょっと調べると、「人間のうらおもて」(中野好夫さん)等の文学的指摘と昆虫行動に共通点がありそうです。
 ずっーと昔、書き残していた「昆虫の観察記録」もようやく使えるようになりました。
 僕は、それを大昔の人々の祭祀ともつなげてみたいと願っています。まあ、楽しみのひとつです。

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