脱線古事記

〈17〉五三鈍中出知三賀

 何年の時か忘れたけど、小学校(国民学校)で生れて初めて『古事記』を習いました。天の岩戸やら八咫烏(ヤタガラス)やらが出て来ました。
稗田阿礼イラスト・中村洋子

 読本(トクホン─教科書)には漢字仮名混りで書かれてましたが、先生が漢字ちゅう外国の文字だけで日本語を書くのに、太安万侶(おおのやすまろ)がえろう苦労した事を話して下さいました。文章そのものは稗田阿礼(ひえだのあれ)が暗記してたとも説明してもらいしまた。
 その次の綴方(作文)の時間に、友だちはみんな普通に原稿用紙に綴ってましたけど、ボクは一丁安万侶の真似したろ思て漢字だけで綴ってみました。「僕之家二和五三鈍中出知三賀居升。……」ちゅう調子で、慥(たし)か原稿用紙三枚か四枚使たと思います。
 右の文は「僕の家には五三どんちゅう丁稚(でっち)さんが居ます」どす。先生には三重円もろて、皆に「こうやって、聞いたらすぐにやってみるのが偉い」て紹介してもろたけど、後で当の五三どんには「わしは鈍と違うで」て言われました。
 どういうわけか、それからも古事記に接したと思いますにゃが、原文(活字版)に出会うたんは大学の時どす。びっくりしたて言うよりも騙された気分になりました。学と我々庶民との関係や教育ちゅうもんに、無責任を感じました。原文は何と、漢文やおへんかいな。「五三鈍中出知三賀」に三重円が付いたんは何やったんや。
 学の世界では『古事記』の漢文を和化漢文とか変体漢文とか言うて正規の漢文とは認めてへんようどす。確かに当て字の部分では苦労してるようで用字をどう読むか頻(しき)りに割注で示してます。
 例えば「淡道之穂之狭別島 訓別云和気下効比」や「天之忍許呂別 許呂二字以音」等。「別はわけと読む」「許呂は音読み」て断ってます。
 けどね、大部分は「身一而有面四、毎面有名」や「今以本身為産、願、勿見妾」のような文どす。さしづめ我々なら訓点打って読む文どす。
 前にも申しましたがイギリスを英吉利と書く事も出来る。水野をMIZUNOと書く事も出来る。CHEMISTRYを化学と訳す事もコンピュータを電脳て言う事も出来る。個々の言葉はこういうことが出来ても、犯す事が出来ひんのが語序どす。
 或(ある)旅館に泊ってね、部屋に通されてびっくりした事がおした。床の間に軸が掛ってる。半截(せつ)に四字「和以貴為」。お見事。漢文なら「以和為貴」。日本語なら「○を○て○しと○す」と送り仮名が要りますな。
 ボクの篆刻の社中の名を「辵璽林(ちゃくじりん)」て言います。以前この辵璽林で漢文講座をやった事がおす。『老子』や『史記』は読めいでも、簡単な印文くらいは読めたらえゝのにちゅう意図どした。
 いろいろ教えていって、練習に思て短い漢文和訳や和文漢訳をやらせました。「私用毛筆」とか「先生は東京へ行く」程度の問題どす。すらすらと訳してくれる者が多かったんどすけど、二人程、何遍やっても「私が使う毛筆」「先生東京行」のような答えになりました。
 こういう話、学者はんやったら一笑に付さはりますやろか。それとも無視どっしゃろか。歴史は知識人だけで成り立ってるのやおへん。圧倒的な数の庶民で続いてます。ボクが太安万侶で漢字だけを使うて日本語を書くとしたら、きっと「五三鈍中出知三賀」式にやりましたやろな。太君の古事記は、漢文が書ける人が漢文で書いたもんやと思いますが。

2010年5月31日 10:19 |コメント0
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水野恵 プロフィール
篆刻家。1931年1月、京都市生まれ。江戸期から続く御用印判司「鮟鱇屈」の流れを継ぐ水野鮟鱇屈3代目。幼い頃から父の師河井章石に薫陶を受ける。京都府立大学文芸学科卒業後は、書を木村陽山に、篆刻は園田湖城に就いて学んだ。俳句や水彩画も手掛け、篆刻・書とともに文人として四絶を目指す。元佛教大学四条センター篆刻講座講師。
著書は、『日本篆刻物語 はんこの文化史』(芸艸堂)、『印章 篆刻のしおり』(芸艸堂)、『古漢辞典』(光村推古書院)など多数。

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