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(3)はじめまして、山本本家です

07年08月22日(水)│執筆者:山本本家・山本

 はじめまして、清酒神聖製造元山本本家の三男坊山本敏雅と申します。伏見の地に住み始めてかれこれ330年、酒を交わせば、尽きぬ話もありますが、伏見の町のことをかいつまんで少しだけ。
 酒処・伏見の町は、その昔、広大な小椋池(日本で2番目の大きさ)を望む藤原氏など皇族の別荘地であり、その小椋池の回りに農村が点在した風光明媚でのどかな地でした。その頃、各村々には井戸があり、伏見七つ井と呼ばれていました。井水(せいすい)は、京都盆地に降った雨が長い年月をかけて伏見に集まり湧き出でる清冽な名水(当時「伏見」は「伏水」と書かれていました)。その井戸の一つ、天太玉命(あめのふとたまのみこと)が愛し育てた白菊の一滴から湧き出でたと言われる「白菊水」を使い、当社の酒は生まれます。今も、酒造り水として、全く成分調整をすることが無い清らかな水が地下100メートルの井戸から湧き上がっています。
 桃山時代にはいると、豊臣秀吉が伏見城を築城し、全国から武士や商人が集められ、伏見は農村から大きな城下町に変貌します。今の伏見の町並や町名は、その頃できあがりました。江戸時代に入って、伏見の町は宿場町に変貌します。角倉了以が高瀬川を掘削、伏見から京の町へ舟を使って物資の運搬を始めました。日本で初めて、内陸の港町として「東海道五十三次」の次の宿場町「伏見」が生まれ、江戸時代、京の交通の要所として栄えます。
 その頃、延宝5年(1677)当社は、伏見の地で産声を上げます。当時、本社のある場所は、西へ長岡京に向かう街道筋として、東へは伏見城にもつながる道であり、大きな商店が並び、界隈でも最もにぎやかな場所であったようです。その中で、初代「塩屋源兵衞」は、味噌、醤油、酒の小売を生業として商いを始めました。それまでは、日本酒・清酒は神の酒、神事や朝廷の一部が飲むもので、消費量も少なかったのですが、江戸時代には庶民も楽しめる飲み物となり、消費量も飛躍的に増えました。
 その当時、上質の日本酒を造る技術は関西にしかなく、全国で消費される上質の日本酒はほとんど関西で作られました。都は京都でしたので、これを「下りもの」(くだりもの)と呼び、高品質の証でした。ちなみに「くだらん」という言葉は、下りものでは無いので品質の悪いものというのが語源だそうです。
 残念ながら、伏見の地は港町でありながら海には面していなかった為、一大消費地である江戸の町に出荷できなかったので、江戸時代、酒造地の代名詞は灘に奪われてしまいました。伏見の地が大きく飛躍するのは、実は明治になってから。また、当社の酒「神聖」が全国に知られる酒になるのは、大正時代です。
 伏見の酒の話は、いつまでも尽きぬ長話。また、お会いできたときにお話し致します。

山本本家 http://www.sakejapan.com/sake/shinsei//