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【19】山宣デス・スケッチを描いた2人

2009年3月11日 15:20

大月源二の「告別の油絵」
200903-19.jpg 『画家大月源二の世界』(2004年:大月書店)評伝を書いた金倉義慧は画家にとっての自伝は画集と言います。この大著は五百余点の絵画の他、戦後に書いた短編「スーリコフ」、「レーピン小伝」、「多喜二と私」が収録された評伝です。
 大月は1904年函館に生まれ、幼少期に小樽に移り、そこで多喜二と出会い交遊します。彼は労農党の選挙ポスター、「戦旗」等の表紙、「蟹工船」の装丁や都新聞の連載「新女性気質」の挿絵、「走る男」などを描いていました。私にとっての大月は、山宣資料館の山宣の「デス・スケッチ」と100号の大作「告別」です。
 大月は、多喜二と虐殺直前まで共同行動をとりました。32年検挙され、3年余投獄し、「転向」。出獄後は、都新聞の「時局漫画」の担当し、強いられて「万州旅行」や従軍画家として千島にも行かされました。こうしないと絵が描けなかったのです。
 戦後、こうした戦中の自分の行動を自省し、直ぐに活動には復帰できなかったようです。やがて日本美術会北海道支部の幹部となり、リアリズム実践である生活派美術集団として20年余年、豊かな作品を数多く描きました。小樽を始めとする四季折々の風景、リンゴ園、白樺林、工場や農園、野菜・果物、ソビエト・ロシアへの旅行による作品がアンデパンダン展に出展されました。この旺盛な制作の合間に、戦中の暗黒時代の生き証人として「プロレタリア美術運動」、多喜二の事、芸術家の思想、創作体験を各地で語っています。1971年3月、67歳で永眠しました。
 ところで、1929年の3月17日に大月源二が山中平治に出した手紙が残っています。それによると、山宣・渡辺政之輔労農葬のために連日徹夜でその準備をしていたので、山中からの問い合わせに返事を出せずに詫びてこの返事を書いたようです。
―「労働者葬は千人位の会衆が集まり、官憲の物々しい警戒の中に行われ、方々にデモが決行されました。美術家同盟としては四つの花輪(鎌とハムマーと星と花の)と「白色テロルに復讐しろ」というスローガを入れた1ケ半の横旗とを以て葬儀を飾り、一同偉大なる同志の英雄的な死に深く復讐を誓いました。<中略>、デッドマスク及びその写真もお受け取り下さったことと思います<後略>。―

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