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【15】城南小作争議の跡を歩く

2009年2月 9日 16:19

 宇治山宣会の取り組みで、山宣が自転車で駆け付けた道を追跡して地元の古老から当時の様子をお聞きしようということになりました。この企画立案では山宣会の役員で近くの小学校に勤務経験のある地理に詳しい安立恭子さんにお世話になり、当日は関係者の1人である奥田さんにも貴重なお話を伺いました。城南小作争議は、映画「武器なき斗い」の小作争議のシーンでも有名であり、日本の小作争議では香川、福岡に次いで農民組合の組織化(佐山村の日農執行委員長・坂本兵蔵)が進んだ歴史的な闘いとされています。
 久世郡佐山村や美豆村の争議が山場を迎えたのが1924~26年です。水平社の夏期講座への参加を機に日本農民組合(日農)主催の「民衆講座」(岡山)や「農民講座」(香川)が農民からの支持を得ていました。こうして宇治の近くの村で小作争議が起きると、山宣は午前中は花やしきで研究活動に従事していても、午後にはこれらの村に駆け付け農民たちと作物の世話や産児調節の話を気軽にしました。例えばトマトを<気ちがいナス>と嫌っている農民には「カナダの農民は栄養があり、おいしいと食べているよ」と声をかけたのです。城南小作争議では小作料の45%減免を地主側に要求しました。地主側は小作の切り崩しを目的にした相助会を作り、国粋会やお寺を巻き込み、児童の同盟休校まで発展した壮絶な闘いとなりましたが、40%減免を得て農民組合の要求が貫徹されました。 

 さて、07年の標記の行事のその懇談会では同盟休校の様子が奥田平蔵さんから語られました。<当時、足踏みの米つき機で2時間かけて精米していました。山宣は、「私もやるわ」と言って、餅つきを一緒にやったことを覚えています。><同盟休校の際、同盟休校の子らは玉田神社に行くが、地主側の子どもたちは学校へ行った。でも子どもたちが少なくてさびしく、大勢がいる玉田の森に行きたくて仕方なかった>と回想していました。この闘いは日農側の勝利でしたが、<シナ事変の際、軍隊に行くと「佐山から来た」と言っただけで殴られた>と言われたそうです。それだけ有名な闘いでした。

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