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006010_平和への軌跡

【14】記念碑の話

2009年2月 9日 16:00

 国民救援会の千代田支部の上野正博さんの「山宣殉難碑建立事情覚え」を紹介しておきます。それによりますと、日本救援新会東京千代田総支部では、結成20周年記念行事として、光栄館跡地に碑を建立することを決議した。
 その後、京都や別所の碑の見学等の活動を行い、同志社山宣会に連絡があったのが1986年10月25日でした。神田の神保町にあった旅館光栄館跡には電気書院が立っていたのでその周辺に記念碑を建てたらどうかということで、東京本部長・山北孝之さんと京都・同志社山宣会に会いに来られました。その頃の様子は「救援新聞;1243号」に、「山宣の顕彰運動が最も活発に行われているのは生誕地京都である。<同志社山宣会は同志社中学校内に事務所が置かれ「山宣研究」なる定期刊行物、その他の飼料の普及と宇治の墓前祭開催に協力している」との書き出しの「山宣殉難碑建立事情雑記」が以後5回にわたって載っています。
 そこで京都側からは田村敬男副会長、山本浩治(山宣・二男)、事務局小田切が出て上野・山北両氏と意見交流しました。東京からは電気書院社長宛の手紙と取締役S氏に訪問依頼をし、「地主・三井不動産の許諾」の問い合わせ方も依頼した経緯を述べられました。
 しかし、「三井相手ではな」という呟きが聞かれ、進捗しませんでした。千代田の方は千代田区議としても活躍されていた中西三洋さん(当時治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟会長)を通して教育委員会・文化財関係にも当たって頂きましたが、「山宣のような左翼の人物の碑を建てればたちまち右翼が襲撃してきて大変なことになる」のでより大きな力が結集しない限り、首都東京に記念碑は簡単には立てられないのが現状です。宇治、別所、そして光栄館周辺の三つの碑の実現は山宣が言う、「背後の多数の大衆の支持」による政治変革が待たれます。

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