うつらない

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 十代の頃に宝生流の仕舞と謡を習っていた。七十近い師匠は、事あるごとに「櫻間道雄先生のお能はすばらしかった」と語って倦まなかった。世に名人上手はあるが、櫻間先生の芸の神髄は、森羅万象を超越していたとまで断言したのである。後年テレビでその能を見たのだが、期待が大きかった分「ん?」と首を傾げたものだ。正直よく判らなかった。
 また昭和四十年代、歌右衛門の「京鹿子娘道成寺」の評判が高かった。これもテレビで見たのだが、はっきり言って退屈だった。何故この舞踊が熱狂的に観客の支持を得るのか、不思議に思えた。ところが南座の顔見世を見た途端、ひっくりかえった。興奮した。「あきらかに違う」と頭を振りつつ、そこに展開する名香のような幻想世界に酔い痴れた。舞台が瞬間に消える芸であることを知った初めである。生ものどころではない。ひと月興行の同じ演目でも、昨日と今日では全く別物。つくづく舞台の写真やビデオは、資料にしかならないと思ったものだ。では、いったい何が映らないのだろう。
 まず、形は映っても言外の風情が見えない。劇場の空気、観客のざわめき、そして何より色気のついた視線が映っていない。ここでいう色気とは、異性への関心や欲望のことである。舞台へ注がれる熱が高いほど、演者も興奮して緊張が高まる。この相乗作用こそ夢の仕掛けだが、いかんせん、それは映らない。テレビの劇場中継がつまらないのは、見たいものをカメラが見せてくれないところにある。例えば、道成寺の乱拍子を見たいのに、カメラは無情にも役者の顔しか映さない。悔しい。
 世は刻々と変化するとはいえ、なお舞台には生でなければ味わえない妖婉な快楽がひそむ。刺戟的、倒錯的に残忍性を加えた世界。たまゆらの陶酔境を求めて、観客が劇場まで足を運ぶ所以である。(挿絵・川浪進)

櫻間道雄(1897~1983)
 能役者。シテ方として傑出した技と主張で能界の重鎮となる。八十四歳で「道成寺」を舞うなど前人未到の業績を残した。

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08/07/14│歌舞伎のツボ│コメント2

コメント

お春さん

なあるほど!

「舞台は瞬間に消える芸」ですか!うまい事をおっしゃいますね。

テレビでしか歌舞伎を観ない私にとって、正直言って、退屈することが多かった。

私は「資料」を観ていたんですね…。ムムム。
たまゆらの陶酔境ですか!いいなあ!

春香さん

毎回読んでいると、段々悔しくなります~。

歌舞伎とは陶酔の幽玄境でしょうか。
はたまた地獄と極楽の狭間をゆきつもどりつ…。

そういう世界を観ていないのを悔しくなるのです。

そうですね、なんでも風情を感じないと解りません。
やはり歌舞伎を舞台で観ないといけないわ!

川浪画伯の絵には、うっとりしましたよ。色香漂い、ありがとうございます。

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