漱石の鶉籠(うずらかご)

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  初めて「吾輩は猫である」を開いたとき、大人の世界を感じたものだ。しかし注釈を眺めても、まずそれが読めない。お手上げとはこういうことなのだろう。疑問の湧いたところを辞書や事典で探すという知恵もないので正直、さっぱり分からなかった。けれど、子ども心にも面白いところはあって、二弦琴のお師匠さんに飼われている三毛子の、「なんでも天璋院様の御祐筆の妹のお嫁に行った先のおっかさんの甥の娘なんだって」という自慢話には大笑いしたことを覚えている。
 また、金田家に侵入した猫が、令嬢の電話を盗み聞きする場面がある。
「あしたね、ゆくんだからね、鶉の三を取っておいておくれ、いいかえ──わかったかい。── なにわからない? おやいやだ。鶉の三を取るんだよ。── なんだって、──取れない?」
 この鶉の三というのが、長い間不明だった。一日、歌舞伎の文献を読んでいて判明した。芝居で桟敷席のことをうずらと呼ぶのである。つまり、下桟敷で一番上等な座席をこう称する。鶉の三は舞台に近い方から数えて三番目で、ちょうど見ごろな場所のことだった。
 江戸時代、公家や武士の上つ方で鶯や雲雀などの小鳥を飼うことが流行した。中でも鶉は雄の長いさえずりが好まれ、鳴き合わせを楽しんだという。鳥の習性によって鳥籠も形が変わる。鶉籠は背の低い真四角な天井に網が張られていた。これが、東西両側の桟敷そっくりなのである。残念ながら今は失われた。
 漱石が明治四十年一月に春陽堂から出した本の題名は「鶉籠」である。中には「坊っちゃん」「二百十日」「草枕」の三編が収められている。
 なぜ、漱石はこういう名をつけたのだろうか。ご存じの方があったら御教示願いたい。

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08/01/21│歌舞伎のツボ│コメント2

コメント

春香さん
漱石さんですか~。偶然というか私も
「漱石と水彩画」の書籍を今読んでいます。鏡子夫人によると「私が一番不思議に思うのは絵のことです」と前置きし、神経衰弱が一番ひどいときにしきりに絵を描いたとか。自己セラピーの一種なのか。また絵の師と仰いだ津田青楓へ「私は生涯に一枚でいいから人が見てありがたい心持ちのする絵を描いてみたい。山水でも動物でも花鳥でも構わない。ただ崇高でありがたい気持ちのする奴をかいて死にたいと思います」と言ったとか。美をいきなりつかむ俳句とか絵を愛した。
そう『鶉籠』は秋の季語で「猫背の人枢(くるる)かたりと鶉籠」などという句(漱石作ではないですが)もあります。美しい鶉籠ものこっているようです。籠の中の女性を表したのでしょうか?なんだか卒論のテーマになりそうです。調査を進めますね!
ある本を読んで、何年か経って「そういうことだった」と解るとは愉快ですね。春香さんの文章で刺激を受けました。ありがとうございます。
私も日曜日、聖書のある箇所で「あ~こういうこと」得心がいきました。
あ、余計なことまで、ではまた楽しみにしております。

岩波の新書版の漱石全集の注に「鶉の三」についての説明があります。
昨日、その箇所を読んでいて、はじめて短編集「鶉籠」の題名は、ここに由来しているのかと思い至りました。
さて、ではなぜ短編集の名を「鶉籠」にしたのか。
僕も調べます。

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