京都民報
なるほど京都

京のお人形

人形寺・宝鏡寺学芸員が語る、京のお人形話あれこれ。

著者:田中正流

【コラム】源氏物語「須磨」の人形の記載

市松人形   26歳の頃、源氏の兄である帝に入内した朧月夜との仲が発覚し、政争に巻き込まれてしまいました。
  追いつめられた光源氏は後見する紫の上に累が及ばないよう、自ら須磨への退去を決意します。
  左大臣家を始めとする親しい人々や藤壺に暇乞いをし、紫の上や女君たちには別れの文を送りました。
  「紅葉賀」で10歳になっても人形遊びをしているような幼かった紫の上も、19歳となり、しっかりとした女性に成長していましたので、源氏は一人残してゆく紫の上に領地や財産をすべて託して須磨へ赴きました。
  須磨の侘び住まいで、源氏は都の人々と便りを交わしたり絵を描いたりしつつ、淋しい日々を送っていましたが、次の年の三月上巳の日に、   今日なむ、かく思すことある人は、御禊したまふべき      図はこの場面で、上巳の日に御禊ぎをすると良いと、知ったかぶりの人が教えに来ています。そこで海辺を見たかったこともあり、禊ぎ祓えをしに出かけました。
  そこで、舟に仰々しい人形(ヒトガタ)を乗せて流すのを見ながら、自分の身の上を歌を詠みました。      知らざりし大海の原に流れ来て   
ひとかたにやはものは悲しき
 ここで祓えを行っている上巳(じょうし・じょうみ)とは、3月の上の巳(み)の日のことです。古来中国では、上巳の日に川で身を清め不浄を祓う習慣がありました。この時期は桃の花が咲く時期であり、桃花酒を飲んだりします。桃は仙人の住む蓬莱山に咲き、不老長寿の妙薬ともされている特別な樹木です。この風習が平安時代頃に唐から日本に伝来し、紙製の小さなヒトガタを作って川や海に流して厄災を祓う行事として広まったとされています。
  江戸時代になると、前回紹介しました季節を問わず女の子が人形遊びをする「雛遊び」と、この「上巳の祓え」とが習合し、雛祭りの原型が完成したとされています。桃の節句の名も、この行事が桃と深い関係があったことから名付けられたものです。
  また最近では、流し雛が雛祭りの原型だと説明しているところも多くありますが、実際には違いまして、雛祭りの行事と女性が信仰する淡島信仰とが習合し、江戸時代の中期以降に雛流しが成立したものです。

写真:『源氏物語』「須磨」の挿絵  宝鏡寺門跡所蔵