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      <title>山宣ワールド</title>
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      <description>山本宣治は、今から70年ほど前に性教育のパイオニアとして活躍した性学者であるとともに、平和と愛を求めて生き、たたかい、暗殺された政治家です。その人柄、見識の高さに人々は尊敬を込めて「山宣」と呼んでいます。</description>
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      <copyright>Copyright 2008</copyright>
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         <title>【６】堺の与謝野晶子と山宣</title>
         <description><![CDATA[<a href="http://www.kyoto-minpo.net/yamasen/archives/images/20081119-012.php" onclick="window.open('http://www.kyoto-minpo.net/yamasen/archives/images/20081119-012.php','popup','width=460,height=326,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.kyoto-minpo.net/yamasen/archives/images/20081119-01-thumb.jpg" width="200" height="141" alt="" /></a>　2007年９月30日に、大阪山宣会（宮崎守正会長、浜田紀男事務局長）が呼びかけての「大阪の山宣を歩く」企画が行われました。浜田さんはシナリオライターとして映画の情報に詳しく「冬ソナ・ブーム」の時には、その解説をして日韓の交流のために尽力し、松野迅さんのヴァイオリン・コンサートの企画・推進者等多面的な活躍をされています。山宣研究では、退職金をつぎ込んでの西口克己著『山宣』の復刻、ご自身の出身職場との関わりでの山宣の『電車ストライキ』復刻・増補版を出す取り組みや山宣「最後の１週間」を解明する取り組み等と精力的です。
　大阪の山宣と言えば、誰でもが先ず頭に浮かべるのは1929年３月４日の天王寺公会堂の第２回全国農民組合大会での「山宣ひとり孤塁を守る・・」の演説です。それに労働学校の講師としての活動があり、山宣は1924年１月20日から始まる第５期で「生物学」の講座を担当しました（場所は安治川教会）。
　そして今回の最終地は、大阪の堺市。なぜ、晶子と山宣か、山宣が晶子に関心を寄せたのは、カナダから帰国して同志社普通学校に入学した頃でした。１部で述べたように、カナダの「アーメン党」の友人らの要請で、カナダの邦人向けの「加奈陀新報」に「晩香波の友へ」の連載をしました。その親友の麻田から彼女らの情報（雑誌など）を送って欲しいと言われていました。「新しい女」としての青踏社のその新聞連載では平塚雷鳥をあげていますが、彼女らに関心を寄せていたのです。巷で与謝野晶子は「五色の酒」を飲む人々と揶揄されていましたが、宣治は「婦人の覚醒」の必要性を論じていました。]]></description>
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         <pubDate>Wed, 19 Nov 2008 13:20:40 +0900</pubDate>
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         <title>【５】トッドの『帝国以後』とクラウゼッツの『戦争論』</title>
         <description><![CDATA[<strong>クラウゼッツの『戦争論』（岩波文庫、3冊）を見る</strong>
<a href="http://www.kyoto-minpo.net/yamasen/archives/images/20081106-02.php" onclick="window.open('http://www.kyoto-minpo.net/yamasen/archives/images/20081106-02.php','popup','width=240,height=240,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.kyoto-minpo.net/yamasen/archives/images/20081106-02-thumb.jpg" width="200" height="200" alt="" /></a>　クラウゼッツは、19世紀初頭に活躍したドイツの軍人・参謀長として参戦した経緯があり、陸軍大学でこの『戦争論』を著述しましたが、彼の死去により、彼の妻が序文を書き編集・出版したものです。ナポレオン戦争時代におけるヨーロッパの戦争を考察したもので、クラウゼッツの『戦争論』はエンゲルスもレーニンもこの書を評価したと聞き、ならば私もと図書館から岩波文庫の「上、中、下」の３冊を借りました。ところが当時のヨーロッパ戦線や各国の対応等の歴史的素養が乏しくて難解。何回も読んでも分からないので通読はあきらめ、パラパラとつまみ読み・「見た」だけで終わりました。

　「山本宣治全集」にゲオルグ・ニコライの『戦争の生物学』の翻訳があります。ダーウィンの『進化論』をベースにした「優勝劣敗」という生き残り戦略を、人類社会に機械的に適応させた考え方で「社会的進化論」と呼ばれたものです。これに対してニコライは相互扶助論の立場から論を展開して、カント、アインシュタインらの識者と協力して反戦同盟を唱えました（後述、アインシュタインの項、参照）。山宣は幼少の時から「花を作って世の中を美しくしたい」と戦争には真っ向から反対していました。このニコライの本を大学時代に英語版で読んで感激し、翻訳を決意してドイツ語版を取り寄せました。同じ生物学の専攻であるニコライに惚れ込んだわけです。
　彼は1922年、大津の京大臨湖実験所に宇治から通う列車の中で翻訳して上巻を出版しました。1928年労農党代議士として当選後、時の内閣・田中義一の中国大陸への侵略の足音を感じた彼は、病気を押して「下巻」訳出に取り掛かりますが、あと50頁足らずの所で刺殺されました。この書も難しいのですが、私は「山本宣治全集」４巻の解説担当のため数回精読する幸せを得ました。]]></description>
         <link>http://www.kyoto-minpo.net/yamasen/archives/2008/11/post_60.php</link>
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         <category>006010_平和への軌跡</category>
         <pubDate>Thu, 06 Nov 2008 10:50:49 +0900</pubDate>
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         <title>【４】山宣の朝鮮人民へのスタンス</title>
         <description><![CDATA[<strong>山宣の投稿した「学潮」誌</strong>
　紺谷延子さんに「セッピョル」誌を見せて頂き尹東柱（ユン・ドンジュ）顕彰への並々ならぬ熱意とそのご努力に接しました。そこで、山宣記念資料館に保存されている関連資料の紹介によって、彼女とその活動への賛意とさせて頂きます。
　私が尹東柱とその名前、活動の概略を知ったのは同志社礼拝堂の東にある彼の詩碑を建てる動きが始まった頃でした。その時、私は同志社中学校の人権教育委員会のメンバーでした。中学生には尹東柱の詩碑に向かって立ち、我々日本が隣人に如何に恥ずべき扱いをしてきたのかをそこから感じてほしいと語りました。この碑と共に深草・第15師団跡、耳塚、岡崎水平社発祥の碑の見学を中心としたフィールドワークを人権教育の課題としての中学生とともに学んだのでした。
　ところで、戦前の同志社にはかなり多くの朝鮮、台湾、中国大陸からの留学生が学んでいました。それは「まだ同志社には自由が息づいていた」（坂口直樹著『戦前同志社の台湾留学生』白帝社）ためでしょう。同志社大学には463人のうち70％の325人、同社中学には248人（30％）の朝鮮留学生が来ていたと言う（詳しくは前掲坂口著参照）。キリスト教と自由な学風に憧れてやってきた尹東柱らを締め上げたのは絶対主義的天皇制の体制即ち山宣が死を賭して闘った治安維持法でした。山宣の朝鮮認識はカナダで得ました。
　◎山宣の「日韓併合」への反応は（１９１０：Aug. 29. Mon.　”Korea is annexed to Japan at last. It is proclaimed on this very day.”）
（朝鮮が日本に併合させられた日に公布された）
 　ガーデナーを夢見てのカナダのヴァンクーヴァーでの苦学生の後半に、彼はブリタニアン高校に入学します。上記の１文は彼の入学式を綴った英文日記の最後の部分にあります。　　　　
　その年８月22日、厳戒態勢下で「韓国併合条約の調印式」がでっちあげられ以後、日本は二次世界大戦敗北の1945年までの36年間の歳月、朝鮮半島を支配・収奪を続けました。日清戦争、日露戦争の延長上にある日本の大国主義的拡張策はやがて朝鮮半島のみならず中国そしてアジア大陸へとその野望を広げて行きました。日本人の多くはこの併合ニュースに酔いしれ祝賀の提灯行列に加わりましたが、山宣はこうした大陸への侵略政策に批判的でした。
　後年、山宣は同志社大講師時代に、「或画の話」と題するエッセイを書いています。これは朝鮮留学学生組織の京都学友会から依頼されて、彼らの会誌『学潮』創刊号(1926年)への寄稿文でした。ある画とは船倉でオールを漕ぐ虐げられた奴隷群像を描いたものです。ベンハーの映画の物語に出てくるような甲板下で鎖に繋がれ、鞭打たれながら必死でオールを握りひたすら漕ぐ様子を描写されたその「或る画」を、ヘンリーはカナダの教会で見ました。この画の回想を通して朝鮮人のおかれた状況を直視し、朝鮮苦学生への連帯のメッセージとしたのです。このエッセイは「山本宣治全集」第３巻に収録されています。この執筆の動機は「朝鮮の青年が近頃厨川白村の『現代の恋愛観』を愛読する事を聞いて思ひ出した」からであり、当時の朝鮮の若者たちが「ラブ・イズ・ベスト」と白村の本に熱をあげている現状に対して、彼はそんな事でよいのかと警鐘を鳴らし、旧約聖書の「虐げられたものの涙流るる、そを拭うものあらざるなり」を引用しました。
　「今は諦めの悲鳴を漏らしている時ではない。勿論、性欲の濫費で政欲の鬱憤を晴らしている時ではない。イザヤの奇跡の到来を告げているのではなく、歴史の環の容赦ない回転を示しているのだから」
　このハングルの雑誌への日本語寄稿文は山宣と同志社同僚講師であった住谷悦治の２人だけでした。山宣のメッセージの末尾は聖書のイザヤ書７章の引用でした。
　「ああ、多くの民はなり　どよめけり、海のなりどよめく如く彼らもなお、どよめけり」
この「学潮」誌は本文がハングルと漢字、平仮名混ざりの雑誌で、創刊号のみで終わった様です。この貴重な文献は韓国では国会図書館に１冊のみ現存するだけのようです。山宣はここへ原稿を寄せただけでなく、巻末に主幹雑誌「性と社会」の広告を出しています。原稿と共に財政的援助もしていたのでした。

　小泉元首相は靖国神社訪問がお好きでした。これによってアジア各地の人々から大きな抗議を受けました。これは日本の権力者が過去の侵略戦争への無反省、頬被りで乗り切ってきた無責任さからくるもので、批判されるのは当然だと言えます。脱亜米追従外交が極まって険悪な状況さえ生まれています。中国や朝鮮問題について我々日本人が真摯に考える機会が少なかった事を今、反省すべきでしょう。私自身の事でいえば、例えば英語、ロシア語等を学なぼうとしましたが学び易い語であるハングルや中国語には見向きもしてきませんでした。前からアリランやイムジン川の歌を歌ってきましたが、韓国・朝鮮の文化や歴史を堀下げた学習をしてきたとはとても言えません。
　国内で生活する多くの在日朝鮮人の抱える課題、北朝鮮の拉致問題等々が複雑に絡み合いあっています。「冬ソナ」以来の韓流ブームが一過性で終わることなく友好関係が深化・発展してする事を望みます。それには多くの尹東柱のように帝国日本の侵略や日本国弾圧された治安維持法によって奪われた犠牲者名誉と尊厳が回復されるべきでしょう。]]></description>
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         <category>006010_平和への軌跡</category>
         <pubDate>Thu, 23 Oct 2008 14:56:31 +0900</pubDate>
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         <title>【３】ソウルと済州島等旅から学ぶ</title>
         <description><![CDATA[　韓国は地理的に日本に一番近いのにもっとも遠い国。これまで日本の長い植民地支配への贖罪意識や少し前までの軍事政権が続いたため、韓国には足が向きませんでした。でも行ってみれば食べ物の嗜好や生活習慣の共通項が多く、ハングルをしっかり身につければ一層友好関係が深まる予感を持ちました。

<strong>ソウルの安重根記念館、西大門獄舎、延世大学の尹東柱の記念館</strong>
<a href="http://www.kyoto-minpo.net/yamasen/archives/images/20081015-02.php" onclick="window.open('http://www.kyoto-minpo.net/yamasen/archives/images/20081015-02.php','popup','width=460,height=345,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.kyoto-minpo.net/yamasen/archives/images/20081015-02-thumb.jpg" width="200" height="150" alt="" /></a>　尹東柱の記念館を訪ねたいと思いつつチャンスがなく、2007年の２泊３日の冬のツアーで実現しました。北海道に行く時間位でしょうか、ソウルにはすぐ着きました。街にハングルが溢れていますが、私にはいちばん親和的な所でした。日本の良きところ悪しきところが反映されている感じも持ちました。
　安重根は伊藤博文を射殺したテロリストと日本では教えられましたが、ご当地では義士。記念館で生い立ちから始まり獄中で書いた達筆を幾本も見ました。学識豊かな父母の元に育ち、キリスト教に接近し伝道にも加わりましたが、おりしも日露戦争日本の不法侵略に抗して1909年冬に祖国と民族を救うために同志たちと断指血盟してその年の秋にハルビンの駅で伊藤を撃ったのです。彼は捕まり旅順の日本帝国主義の獄舎の中で遺言を残しています。その最後に執筆した「東洋平和論は処刑によりこの詳論の完成はされませんでしたが、今日的にも意義深いものと読めました。それには韓国、中国、日本を中心として今日的な課題に繋がる「東アジア共同体」構想の萌芽的見解が示されています。
　次は西大門刑務所歴史館へ。雪の残る入り口近くで映画のロケーションがありスカート姿の女優さんは震えて出番を待っていました。ここではドイツ・ミュンヘンのナチスの獄や、ポーランドのアウシュビッツもそうでしたが、それらを想起しました。日本の侵略に異をとなえる者を捕らえ拷問・陵辱した歴史の証。その時、山本宣治の国でも同様に治安維持法が猛威を振っていました。これが安部首相（当時の首相）ら靖国派の言う「美しい国」の実態です。工作舎では、「２度とこうした非人間的なことはやめよう」のメッセージが流れており見学に訪れた学童たちが疑似体験を受けていました。
　２泊３日の最終日。かねてから希望していた尹東柱の学んだ延世大学へガイドさん付きですが単独行動しました。大きなキャンパスに３万人の学生が学んでいるとの事。この朝は氷点下４度、ガイドの金さんの案内で往きはタクシーで構内の中程へ。76年に立てられた尹東柱の「1点の恥じることはない」のハングルの詩碑はすぐ分かりました。２階の展示室を訪れ訪問の証拠に紺谷延子さんの編集した冊子と私の山宣の本と記名を残しました。
　この国でも同じように進学をめぐる競争や女子生徒の超ミニスカートも現れ、離婚も子への虐待もニュースになると言う。孝道（親孝行）の美学にも翳りがあるのでしょうか。でも孝道の骨格は揺ぎ無い雰囲気でした。２年間徴兵制がありこの間に「男道」を作られるのでしょうか。韓国社会も成熟が進み活力が落ちてきたようです。不均等発展と言えるのでしょうか。新幹線が半島の中心を走り韓国各地への旅が楽になったようです。金浦空港は今でも羽田との便が増えるそうですが仁川空港が主力で高速道路が首都への旅客を捌いていました。
]]></description>
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         <category>006010_平和への軌跡</category>
         <pubDate>Wed, 15 Oct 2008 11:31:44 +0900</pubDate>
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         <title>【２】京都・福知山の演説会</title>
         <description><![CDATA[<strong>―猿は3尺しかとばなかった―</strong><a href="http://www.kyoto-minpo.net/yamasen/archives/images/20081008.php" onclick="window.open('http://www.kyoto-minpo.net/yamasen/archives/images/20081008.php','popup','width=460,height=345,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.kyoto-minpo.net/yamasen/archives/images/20081008-thumb.jpg" width="200" height="150" alt="" /></a>
　2008年2月、京都市長選が闘われた。「京都の刷新」を旗印に中村和男弁護士が前職の継承を掲げる自民・公明・民主のオール与党体制候補を相手にして闘う激烈な選挙でした。政策ビラ撒きはまさに雪の中をかき分けて進む状況でした。山宣選挙（1928年１月24日～2月20日）の時は冬でしたから、京都府下の田畑の中の雪をかき分けて、宣伝隊は進んだ事であったろう。この京都市長選挙は相手陣営を、951票にまで追い詰め、当選こそを逃したが政治的には勝利したと言えます。

　さて、山宣に戻ろう。大阪山宣会の浜田紀男さんの企画により’08年3月1、２日に京都府下の三和荘での「山宣・映画と講演のつどい」に出かけました。山宣もたびたび訪れ、演説会が開かれた福知山近くでこの会には多数の参加がありました。
　山宣の最後の演説は、「猿は3尺…」（労農党京都天田軍支部結党式へのメッセージ：山宣全集５巻収録）です。3月5日の東京西神田小学校での東京市会議員候補の中村高一への応援演説がまさに、最後となりましたが、その「猿…」と同じ内容でした。

　山宣が死の直前の3月3日に福知山に出かけたのは理由があります。山宣は2月8日の衆議院予算委員会第2分科会で「拷問・不法監禁に対する質問」をしましたが、その際、福知山の『昭和魁新聞』経営者であった細見文治を不当逮捕、留置所での不当な対応を暴いたのでしたが、その事で細見に迷惑がかからなかったのかと心配でした。そこで、彼は多忙な日程を割いて「立錐の山の余地もない聴衆、取り巻く官憲の前での演説」を行い、宿舎の御霊会館では夜を徹して仲間と話しあいました。「明日は大阪の農民大会＜作者の註書き：山宣ひとり孤塁を守る、と演説した全農2回大会＞に出席する車中で、私は寝ればいい」（「細見文治の想い出」）と言ったそうです。山宣のやさしさと細見文治さんらの奮闘の様子は心温まるものがあります。文治さんはジャーナリストとしての活動から労農党に入り山宣選挙を闘い、後に安田徳太郎や飯田三美医師を招き大衆診療所を開設しました。

　こうした闘いの歴史が脈々と続いた福知山での記念集会でした。準備された清水照子さんらの奮闘により多数の参加者があり、皆さんの力で福知山における山宣と彼と共に闘った仲間の歴史を顕彰する機運が起こるきっかけになればうれしいです。

]]></description>
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         <pubDate>Wed, 08 Oct 2008 15:27:00 +0900</pubDate>
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         <title>【１】山宣の反戦・平和活動の軌跡</title>
         <description><![CDATA[<a href="http://www.kyoto-minpo.net/yamasen/archives/heiwa_img/20081002-01.php" onclick="window.open('http://www.kyoto-minpo.net/yamasen/archives/heiwa_img/20081002-01.php','popup','width=296,height=460,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.kyoto-minpo.net/yamasen/archives/heiwa_img/20081002-01-thumb.jpg" width="128" height="200" alt="" /></a>　東京での学生時代の歩みは、１部の生い立ちに詳しく述べましたのでそれに譲ります。山宣はカナダでの領事館から＜日本に帰れば社会主義は棄て、まじめに勉強してほしい＞と忠告され、＜君の前途を惜しんでブラックリストから君の名前を抹殺し、本国へは報告しない＞とたしなめられたことが頭にあり、東京帝国大学では新人会にも加わらずもっぱら勉学に集中しました。

　日本の近代化の道筋と明治から大正にかけて反戦・平和を考える上で日清、日露の戦争は重要です。アジアを旅してこれまで権勢のある欧米の列強国に対してアジアの一国・日本が勝った事を評価する声が出されました。東南～北東アジアではその後に帝国日本は同じ黄色人を撃つために戦争をしかけましたが、その罪との真摯な向き合いが今日まで日本政府からは聞かれていません。ドイツと大きな違いです。戦に駆り出された日本の国民として許し難い厚顔無恥の自民党政府を恥とする所です。
　宣治の生まれた年に帝国憲法が発布されました。その後ひき続き教育勅語がだされ、この路線が貫徹されていきましたが、キリスト教徒であった山宣ファミリーの一員の宣治は「汝殺す事無かれ」の反戦のメッセージを素直に受け活動して行きました。「近代化」を是認して「立身出世」を富国強兵に重ね、「故郷の歌」の「志を果たして何時の日にか帰らん」を皆の思いと錯覚したのです。誤解を恐れずに言えば「脱亜入欧」の福沢諭吉の「扇動」によって庶民までが踊らされていたと気が付くには時間が必要でした。

<a href="http://www.kyoto-minpo.net/yamasen/archives/heiwa_img/20081002-02.php" onclick="window.open('http://www.kyoto-minpo.net/yamasen/archives/heiwa_img/20081002-02.php','popup','width=345,height=460,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.kyoto-minpo.net/yamasen/archives/heiwa_img/20081002-02-thumb.jpg" width="150" height="200" alt="" /></a>　宣治が生まれてから日清、日露の両戦争を挟んで日本国内では、大逆事件に象徴されるように天皇制権力は国民の抵抗運動を圧殺し、対外的に「日韓併合」・大陸への侵略の道を突き進んでいきました。多くの国民はその流れに巻き込まれ、塗炭の苦しみを味わい不自由を強いられたのです。
　でも山宣らのようにこれらの激流に抗い闘った少数者がおりました。1部で述べましたように山宣は東京帝国大学卒業して同志社大学予科講師、京大医学部講師（大津臨湖実験所勤務）として働き、性学研究・性教育のために東奔西走の日々を送りました。

　1922年の春、サンガー女史の来日を機にした産児調節運動への参加とその啓発本を利用して労働組合活動に参加し、来日したアインシュタインに会いに行き、ニコライの反戦書「戦争の生物学」の推薦状を貰いました。やがて水平社運動、農民組合や労働組合へ足を運ぶ中で「象牙の塔」と言われていた大学・学界から飛び出して本格的に庶民の中に身を置く事になりました。その結果、24年京大講師辞任、26年京都学連事件で同志社大講師の辞職と弾圧を受けました。彼はそれに怯まずに労農党員として活動しました。27年４月衆議院京都５区補欠選挙立候補、28年代議士に当選と人民解放運動、政治活動に邁進することとなりました。]]></description>
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         <category>006010_平和への軌跡</category>
         <pubDate>Thu, 02 Oct 2008 18:07:52 +0900</pubDate>
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         <title>白銀に、花やしき　反戦・平和はみんなの願い </title>
         <description><![CDATA[<div class="kakomi">小田切さんの若者を対象にした前著『Henry・山宣の青春物語――山本宣治カナダ時代の軌跡』の続編として、山宣評伝をシリーズでお送りします。<br /><strong>小田切　明徳プロフィール：</strong>1944年４月16日、信州大学教育学部卒後、私立同志社中学校教諭を勤める。現在、同志社山宣会事務局長、宇治山宣会顧問。</div>
<div class="matai">平和を作りだす人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。<br />義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである、<br /><マタイによる福音書5章></div>

<h4 style="margin-top:15px;">はじめに</h4>

　山宣は幼少の頃、父の亀松に花作りを教わりました。植木屋さんが着る法被をまとった宣治は「シオンの娘、語れかし、わが愛のきみを昼たたえ」と大きな声で讃美歌を歌いながら、園芸の仕事に勤しみました。
　父・亀松は東京の神田新石町の奉公先の丁稚をしながら、耳学問で学んだ江戸から続く園芸術を見よう見まねで息子に教えます。その庭園が整ってくると彼らは東京向島の百花園を意識して「花やしき」と命名して花作りをしました。
　亀松は「菊と朝顔は嫌い」でしたからそれを避けて植えました。桜、椿、梅、藤、紫陽花、木蓮などの花木や撫子、桔梗、葵、芥子の草花が咲きました。
　東京から園芸見習を終えた宣治が戻る頃になると、パンジー、デージー、スｲ―トピーなどの西洋の品種が並びます。＜これはコスモス・ヒウリダース＞との宣治の説明が続き、西洋の草花に囲まれて讃美歌が聞こえて来るような西洋絵画に見られるシーンそのものでした。頃は日露戦争の真っただ中でした。
　亀松は大の内村鑑三贔屓でしたから、その思いを継いで「花を作って世の中を美しくしたい」と言う宣治の意志は赤い糸となって生涯を貫きました。カナダでの日本庭園作り、東京帝国大学時代にはＧ・ニコライ著の「戦争の生物学」の翻訳を決意、対支非干渉同盟の中国視察団団長（宇治署に拘束）、刺殺直前まで「戦争撲滅ために奮闘せよ」というスローガンを机の上に掲げて翻訳を続けましたが、残念な事に「戦争の生物学」の翻訳は完訳できませんでした。
　さて、山宣譚の３部作の相互関係を書いておきます。来年、2009年は山本宣治の没後80年、生誕120年の節目の年にあたります。そこで山宣の顕彰や山宣研究に30年余り携わってきた私としてその間にお聞きした事を後進の方々に語っておく機会としました。１部は生い立ちの記（東京帝国大学卒業まで）、この聞き書きをまとめた物を２部としました。３部は「はんなりと性」と題して性教育のパイオニア山宣を執筆しています。

　１部は山宣の生い立ちです。私が山宣を知ったのは西口克己の小説『山宣』（大阪山宣会が復刻版を印刷しました）とそれを映画化した『武器なき斗い』（山本薩夫監督）でした。この映画は安保闘争の昂揚期に作られ、多くの人々は山宣の人となりを知り、感動しました。西口は山宣の母・タネさんからの聞き取りを基に、感動的な小説を書き上げましたが、カナダ時代の記述には正確さが欠けていました。　　
　その欠点を補ったのが山宣の土蔵に残された膨大な資料を10年の歳月をかけて、整理・分類して書きあげられた佐々木敏二の著作『山本宣治（上・下）』（不二出版からの復刻）でした。この段階を山宣研究の第２ステージと名づけました。佐々木の仕事は実証的で緻密な論述で、後述のように多方面から出されていた批判への対応を意識して書かれました。そのため山宣の生きた時代背景を織り交ぜての緻密な記述となり、難しいという感想もありましたが、山宣評伝の決定版です。

　私は第２ステージで西口克己さんと出会い、佐々木さんや当時ご活躍中の山宣の同志であった住谷悦治同志社総長、語り部としての田村敬男、木村京太郎等の山宣と関係深い方々から様々なお話をお聞きしました。
　私はこれらの２次、３次資料を集め編集して『山宣研究』（宇治山宣会発行・１号から１５号）を発行しました。私は当時、山宣の母校・同志社に勤務しており、生物学の担当として教育内容の自主編成の取り組みや就職時の活動が中心で組合運動等にも関わっていてかなり多忙でした。この研究誌には校正ミスなどの不備があり、新聞学者の和田洋一さんからは「誤植が多く読む気にならない」と酷評もされました。
　私は職場を辞めてから山宣の顕彰と啓発のセンターとなって活動している宇治山宣会に属して会の仲間とともに山宣資料館の資料の分類、研究の分野において微力を注ぎました。宇治山宣会では部内に調査委研究部が置かれ各種の研究会が組織され、その後発見された資料の蓄積とフィールド調査（小樽、東京、鳥取、上海、大阪・堺等）を試み、山宣の業績と我々に課せられた今日的課題を明らかにするための努力を続け、山宣研究は第３ステージに入りました。

<div class="photo-box"><a href="http://www.kyoto-minpo.net/yamasen/archives/heiwa_img/yamasen.php" onclick="window.open('http://www.kyoto-minpo.net/yamasen/archives/heiwa_img/yamasen.php','popup','width=487,height=687,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.kyoto-minpo.net/yamasen/archives/heiwa_img/yamasen-thumb.jpg" width="150" height="211" alt="" /></a><p>小田切明徳著「Henry・山宣の青春物語――山本宣治カナダ時代の軌跡」（宇治山宣会）</p></div>　’06年春に私は若者を対象にした『Henry・山宣の青春物語――山本宣治カナダ時代の軌跡』を宇治山宣会から出版しました。若者向けに手頃で安価なものが必要とのアドヴァイスに従って元原稿を１/3に縮小し、自主出版・印税なしで臨みました。そのため肝心なところまで削除せざるを得なくなり、不作となりました。そこで今回は元原稿をベースに山宣の大学卒業までを書き加えて山宣譚１部を書きました。その２部、３部は社会人の山宣の果たした仕事を次の５つに分析して論述を進めてみました。

（１）世界的な性科学者・性教育のパイオニア、（２）産児調節運動のリーダー：雑誌『産児調節評論』・『性と社会』の発行、（３）労働学校・「自由大学」「水平社」講座の講師活動、（４）反戦・平和活動の追求、（５）国民・庶民の政治家・代議士（労働運動、小作争議の支援者・旧労農党員の活動を経て、第1回普通選挙で京都第2区より当選。

　これが1919年から約10年間の山宣の仕事です。（１）から（２）は山宣の専門家として性の啓発活動に当たりおおよそ７年間。残りの３年間は主として政治的活動でした。この「山宣譚の２部」は『反戦・平和はみんなの願い―山宣とその時代からの呼びかけ』としました。

　「山宣の事を教えて頂けませんか」と紹介状も持たずに出かけた私を、既知の友人のように快くお迎え下さり、あれこれとお話し頂きました。山宣さんは皆から愛され惜しまれた人であったのだとつくづく思いました。私が山宣を知ってから半世紀近くなりその間に見聞きした事を次代にお伝えしたい。インタビューに応じてくれた方には深謝です。

　上記の聖句（マタイ伝５章）のそれは内村鑑三編明治三十六年十月二十二日聖書研究社から発行された「小供の聖書」を亀松からもらった宣治は繰り返して覚えたのでしょう。
　その原本：＜平和を求るものは福（ｻｲﾜｲ）なり　其人は神の子と称えらる可ければなり＞
　この第２部は「同志社山宣関係資料目録」をまとめ、評伝「山本宣治」を書きあげた佐々木敏二さんに捧げます。]]></description>
         <link>http://www.kyoto-minpo.net/yamasen/archives/2008/10/post_55.php</link>
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         <category>006010_平和への軌跡</category>
         <pubDate>Thu, 02 Oct 2008 17:22:49 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>洛南タイムス連載「南山城の光芒」</title>
         <description><![CDATA[本庄です。

現在『洛南タイムス』に「<a href="http://www.rakutai.jp/etc/yamashiro/index.html" target="_blank">南山城の光芒</a>」を連載しています。
山宣暗殺の黒幕に迫ったノンフィクションです。リンクをはっていただいてもいいです。

<a href="http://www.rakutai.jp/etc/yamashiro/index.html" target="_blank">
http://www.rakutai.jp/etc/yamashiro/index.html</a>
〔2009年は治安維持法に反対し暗殺された山宣の没80年周年〕]]></description>
         <link>http://www.kyoto-minpo.net/yamasen/archives/2008/09/post_54.php</link>
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         <category>005010_掲示板</category>
         <pubDate>Fri, 19 Sep 2008 10:03:49 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>【イベント】長野山宣会第２０回碑前祭</title>
         <description><![CDATA[<strong>長野山宣会から、イベントのお知らせです</strong>

　長野山宣会は10月12日午後1時から、長野県上田市別所の安楽寺境内の山宣碑前で第20回碑前祭を行います。荒中俊信会長が黙祷、挨拶後、遺族らが追悼します。
　記念講演会では、山宣三男の浜田繁治さんと次女の井手みよさんが「花屋敷の思い出話」と題して話します。郷土芸能の「車人形」も上演されます。問い合わせ先は、長野山宣会事務局ＴＥＬ０２６８・２７・１８１０（平林堂書店）。]]></description>
         <link>http://www.kyoto-minpo.net/yamasen/archives/2008/09/20.php</link>
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         <category>005010_掲示板</category>
         <pubDate>Mon, 08 Sep 2008 14:46:24 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>治安維持法に対峙しつつ日本の文化政策の構築に貢献した人たち（３）</title>
         <description><![CDATA[<strong>全日本無産者芸術家聯盟</strong>

<div align="right">宇治山宣会顧問　蓮佛亨</div>

<a href="http://www.kyoto-minpo.net/yamasen/archives/images/study_080805.php" onclick="window.open('http://www.kyoto-minpo.net/yamasen/archives/images/study_080805.php','popup','width=460,height=345,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.kyoto-minpo.net/yamasen/archives/images/study_080805-thumb.jpg" width="200" height="150" alt="" /></a>　橋浦泰雄は、1928年3月に結成された「全日本無産者芸術家聯盟」（ナップ）の中央委員長となっている。その結成にむけ、各地の有力者らに会いに回っている。そのひとつが自ら「ヤジキタの旅」と称している建築家・田上義也（たがみ・よしや）との北海道の旅である。田上は建築家としては北海道随一の先達であり、全道を回り、大地に根づいた建築を造り上げた。北海道銀行本店ビル、札幌北一条教会、網走市郷土博物館などが代表作である。筆者も懇意にした人である。田上は橋浦の11歳年下であるが、互いに気が合っていたらしい。橋浦は札幌滞在中に描き溜めた絵で個展を開き、売り上げ金で1924年4月中旬から5月上旬にかけて、田上はバイオリン、橋浦は絵筆を携えての珍道中となった。風風紀の絵葉書を順にたどっていくと、4月23日留萌・小見、24日網走、27日～5月3日国後島、4日釧路…となっている。
　積丹半島を回った所にある岩内で5月21日、北海道を代表する漁民・画家である木田金次郎に逢い、下北半島東端の塩尻に原始共産制の所があると聴き、後に訪れることになる。それが柳田国男に評価され、民俗学を開く基礎となった。
　橋浦は札幌を足がかりに北海道に出かけ各地の画家や先達たちと会い、民俗学の素養を身に付け、東京に戻ってナップ設立に力を尽くす…。各地を駆け巡り、美術家の統一と団結を図りつつ、16歳年下の大月源二の成長を見守り、励ましてきたのである。
　その後1928年11月、移動展形態でナップの第一回展覧会が計画的に開かれていった。まず東京の新宿、大島、小石川の３カ所で行われ、新宿は約1100人の参加者のうち、900人がインテリゲンチャ、200人が労働者であった。各地の諸団体との連携のもとに青森県下では黒石、青森、弘前で行われ、九州の八幡、小倉、福岡、八代、志布志では様々な圧力にもかかわらず堂々と遂行されている。この２カ所の来会者は2000人を超え、その大部分が労働者・農民であったことは主催者を勇気付けた。
　山宣が謀殺された1929年の5、6月には、ナップ企画の関西共同巡回展が行なわれ、京都、大阪、神戸の催しに並行して、国民にアピールするための講演会を開催している。その弁士の一人に大月源二が出ている。
　大月源二と小林多喜二は1931年に日本共産党に入党している。橋浦泰雄は1年前の30年12月に入党しているから2人を勧誘したのは橋浦かもしれない。もうひとつ、入党を心に強く決めさせたのは、山宣の死であろう。画家の矢部友衛の入党は1948年であり、戦前戦後を通じて随分苦労されたようだ。矢部の絵画「労働葬」は戦後、上野の国立美術館より出品が依頼されたが、絵画は手元になく、出品できなかったと、姪で「矢部友衛素描集」を編集した豊田さやかさんが証言している。]]></description>
         <link>http://www.kyoto-minpo.net/yamasen/archives/2008/08/post_53.php</link>
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         <category>002010_山宣研究</category>
         <pubDate>Tue, 05 Aug 2008 15:26:01 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>治安維持法に対峙しつつ日本の文化政策の構築に貢献した人たち（２）</title>
         <description><![CDATA[<strong>橋浦泰雄と大月源二、小林多喜二</strong>

<div align="right">宇治山宣会顧問　蓮佛亨</div>

<a href="http://www.kyoto-minpo.net/yamasen/archives/images/study_080730.php" onclick="window.open('http://www.kyoto-minpo.net/yamasen/archives/images/study_080730.php','popup','width=345,height=460,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.kyoto-minpo.net/yamasen/archives/images/study_080730-thumb.jpg" width="150" height="200" alt="" /></a>　橋浦泰雄が小樽の大月源二、小林多喜二を知ったのは、1925年頃だと思われる。橋浦は兄義雄の夫人が亡くなり、兄を助けるために兄の住む札幌に足を運び、北海道を旅しており、その過程で出会った様である。
　大月は22年4月に東京美術学校に入学。18歳だった。級友には小磯良平、猪熊玄一郎などがいた。10月に叔父の家に下宿した。
　小林は24年３月に小樽高商を卒業し、北海道拓殖銀行に就職。磯野小作争議、小樽港湾争議などを支援しつつ、第一回普通選挙には演説隊員に参加した。28年の「３・15」事件の模様を「戦旗」に同年11月、12月号に「1928年3月15日」として連載。当時、非合法で国民には知らされていなかった権力による日本共産党への弾圧を文学として発表し、党と共に名前を一挙に知らしめた。29年には「戦旗」の5、6月号に「蟹工船」を、中央公論11月号に「不在地主」を掲載している。11月には拓殖銀行を解雇され、翌30年３月に上京。28年11月26日から翌年3月まで東北から北海道を遊説しており、この時に山宣と小林が逢っていると「山宣」の経歴から推測されるのである。
橋浦は札幌と東京を往復しながら、28年3月、前衛芸術家同盟と日本プロレタリア芸術家聯盟が合同し、全日本無産者芸術家聯盟（ナップ）を結成、中央委員長となっている。28年1月に、蔵原惟人は「前衛」紙上で「無産階級芸術運動に新段階」という論文を発表している。当時まだ表立てない日本共産党の文化部を代表しての紙上提案であるが、橋浦泰雄はそのことを忠実に実行しているようである。橋浦は29年1月、日本プロレタリア美術家同盟（ＡＲ）の結成に参加、4月にＰ．Ｐ．に発展し、中央委員となっている。
　ここで1930年3月30日に橋浦の記述した文章から、Ｐ．Ｐ．の第二回大会に於いて採択された同盟の「行動綱領」を引用したい。

＝行動綱領＝
わが同盟はプロレタリアートが美術に要求する宣伝煽動性の階級的役割を、その生産および発表の実践課程に於いて遂行しつつ、プロレタリア美術の確立を目的とする美術家の大衆的組織である。
Ⅰ　労働者農民の解放のための美術闘争
Ⅰ　言論、集会、出版、展覧、結社の自由獲得の闘争
Ⅰ　一切の反動美術並びにその機構の克服の闘争
Ⅰ　プロレタリア美術運動の国際的結合の闘争
Ⅰ　プロレタリア美術確立の闘争

　これらは、移動展形態の展覧会を全国的に各地で催し、成功させて得た経験からつくりあげた行動綱領であった。
　その後、大月源二は「告別」と共にコンテで描いた素描を1929年の第二回プロレタリア美術展に出展しているが、何故か橋浦泰雄は1997年に至るまで公表しなかった。その疑問解明にとりかかった。

　最も最年長の橋浦泰雄は矢部友衛の4歳年上でもあり、地道な活動が柳田国男に信頼され、旅先ではその地域の生活と歴史を聴き取り、記録しつつ生活実態を把握し、民俗学の礎を積み上げていくという手法を作り上げ、旅という時間のかかる実践をした。
　ここで、非合法であった日本共産党と表立って動いていた人たちとの関わりを知っていただくため、宮本顕治が20歳の時に書いた「『敗北』の文学」は1929年4月、総合雑誌「改造」の懸賞募集に応じて当選した。その2年前に自殺した芥川龍之介に関わって書いたものである。同年3月5日、山宣が殺され、8日に行われた東京大学の仏教青年会館での告別式に宮本顕治が出席している。
　1928年の「3・15」、29年の「4・16」の日本共産党への一斉検挙で第二無産者新聞も弾圧つづきで出せず、変わって芸術運動の機関紙だった「戦旗」が日本共産党の合法的な文化・啓蒙活動の定期刊行物として位置付けられていた。1931年の春、日本プロレタリア作家同盟（ナルプ）に宮本は加入している。以後、同盟に対してさかんに論評・批評を行っている。そして同年5月に手塚英孝と生江健次の紹介で日本共産党に入党している。橋浦泰雄の21歳年下であるが、7歳年上の蔵原惟人を支え、文化部面でも立派に役割を果たしている。
　蔵原惟人は1902年生まれの大月源二の２歳年上である。東京府立１中から東京外国語学校、ロシア語学科を出て、革命後のソビエトに於ける長期滞在者としては草分けのひとりとしてソ連邦に入国している。商業新聞の特派員という資格によってである。そこで実地社会主義の建設過程に接してきた。1926年に帰国した蔵原は、ただちにプロレタリア文藝運動に参加し、革命運動に生涯を捧げることとなった。宮本の７歳年上ではあるが、名コンビであった。

６人の生年
橋浦泰雄　　1888年
矢部友衛　　1892年
蔵原惟人　　1902年
小林多喜二　1903年
大槻源二　　1904年
宮本顕治　　1909年]]></description>
         <link>http://www.kyoto-minpo.net/yamasen/archives/2008/07/post_52.php</link>
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         <category>002010_山宣研究</category>
         <pubDate>Wed, 30 Jul 2008 18:51:49 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>治安維持法に対峙しつつ日本の文化政策の構築に貢献した人たち（１）</title>
         <description><![CDATA[<strong>橋浦泰雄と大月源二たち</strong>

<div align="right">宇治山宣会顧問　蓮佛亨</div>

<a href="http://www.kyoto-minpo.net/yamasen/archives/images/study_080719.php" onclick="window.open('http://www.kyoto-minpo.net/yamasen/archives/images/study_080719.php','popup','width=460,height=345,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.kyoto-minpo.net/yamasen/archives/images/study_080719-thumb.jpg" width="200" height="150" alt="" /></a>　山宣のお通夜は東大・キリスト教青年会館にて行われ、告別式は青山葬儀場にて全国渡政・山宣労農葬として行われた。その時の「棺」を運ぶ様子の絵は、大月源二と矢部友衛の二人が描いている。画名は「告別」と「労働葬」である。神田の光栄舘で謀殺されて一番早く駆け付け、山宣のデスマスクを素描したのは橋浦泰雄と大月源二である。その時の事情の解明が、現代社会では非常に重要なこととして史実の裏付けに基づきつつ、検証されることが求められている。

　橋浦泰雄の描いた「大作」＝山宣のデスマスク＝の表装をしっかりとさせ、貸出しても破れないように整え、「憲法九条の会」や「治安維持法賠償同盟の運動」に役立てたいと、今年１月９日に新潟の小林春規氏を訪れて表装するように注文した。自らも新潟を訪ね、タテ×ヨコ・寸法を確かめ、表装の納め具合の確認に行って来た。そのとき偶然にもう一つの「労働葬」を描いた画家・矢部友衛の［伝記］が小林さんの手元に二冊あり、一冊を譲り受けて来た。矢部さんの「姪」にあたる豊田さやか編著による「本」であるが、「労働葬」絵画の行方を探し求める手筈だったので大いに助かった。

　治安維持法が悪法に転化（１９２８．６．２９）された直後の時期の事情を、矢部友衛も含めた人たちが、どのように治安維持法に対峙しつつ、文化活動を進めたかを見ることが、いかに今日の日本国民にとって、文化政策を構築するうえで大切であったかを思い、今回の草稿をはじめた。
　1918年に東京美術学校（東京芸大の前身）を卒業した矢部は、フランス・パリに留学してイギリス・イタリア・ドイツの各国を回り、西洋画を身に付けて帰国。日本に初めて立体派絵画を紹介し、神原泰や中川紀元たちとアバンギャルド美術運動を起こす。新しい時代へのいぶきを探求する画家、40人ばかりを指導しつつ、画壇に大きな影響を与えていた。

　これで山宣に拘る４人の文化人の活動記録が揃ったのである。橋浦泰雄・大月源二・矢部友衛・小林多喜二４人の年譜を、年ごとに一覧表にしてクロス表を作成し、４人の動きを同時に並行して検討し、関連や評価・判断を試みた。歴史学の研究に使う方法ではどうなるのか知らないが、私の生まれる前の時期の事柄であり、４人の動き関係を正確に見ておいた方がよいと、この方法を試みた。

　一覧表は橋浦泰雄の「五塵録」、「風風記」ほかを利用して作成した。大月源二は「大月源二の世界」ほかの年譜からである。矢部友衛は新潟から譲り受けた本「矢部友衛」により、小林多喜二は「前衛」の２００８年５月号の不破論文によった。　
（写真は橋浦泰雄が描いたデスマスクを表装したもの＝08年6月1日、山宣生誕119年記念講演会）]]></description>
         <link>http://www.kyoto-minpo.net/yamasen/archives/2008/07/post_51.php</link>
         <guid>http://www.kyoto-minpo.net/yamasen/archives/2008/07/post_51.php</guid>
         <category>002010_山宣研究</category>
         <pubDate>Sat, 19 Jul 2008 10:21:38 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>江口渙に大きな影響与えた山宣暗殺</title>
         <description><![CDATA[<a href="http://www.kyoto-minpo.net/yamasen/archives/images/study_080602.php" onclick="window.open('http://www.kyoto-minpo.net/yamasen/archives/images/study_080602.php','popup','width=460,height=345,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.kyoto-minpo.net/yamasen/archives/images/study_080602-thumb.jpg" width="200" height="150" alt="" /></a>　山本宣治生誕119年を記念する講演会が1日、宇治市の花やしき浮舟園で行われ、75人が参加。反戦を貫き右翼の凶刃に倒れた「山宣」の偉業をたたえ、その意志を受け継ぐ誓いを新たにしました。
　近代文学研究者の秦重雄さんが「プロレタリア文学は、山宣の暗殺をいかに描いたか」と題して講演。秦氏は文芸批評家で作家の江口渙（1887～1975）が山宣暗殺を1929年、47年、55年と3回にわたって書いた作品を比較し、当初“孤独な死”として描いていた山宣の死が、多くの人の嘆きや苦しみの代弁者だったと変化していった過程に触れ「山宣の死は江口の作家としての第２の誕生の大きな影響を与えた」とのべました。
　また、多喜二賞を受賞した民族芸術研究所前理事長の茶谷十六さんが、1987年の韓国の軍事政権下で翻訳され読まれていた「蟹工船」の翻訳者を取材した経験を報告しました。
　　　　　　◇
　講演会後、宇治山宣会の総会が開かれ、08年度方針として山宣生誕120年・没後80年の記念事業の成功と山宣資料館の整備などを柱とした計画を採択しました。選出された役員は次の通り。顧問＝山中登・蓮佛亨・小田切明徳・山本勇治、会長＝薮田秀雄、副会長＝梅田忠夫・佐藤佳久、事務局長＝小松正明（いずれも再）。]]></description>
         <link>http://www.kyoto-minpo.net/yamasen/archives/2008/06/post_50.php</link>
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         <category>002010_山宣研究</category>
         <pubDate>Mon, 02 Jun 2008 16:29:49 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>山宣デス・スケッチ（５）</title>
         <description><![CDATA[<strong>新潟を訪ねて</strong>
<a href="http://www.kyoto-minpo.net/yamasen/archives/images/study_080212-01.php" onclick="window.open('http://www.kyoto-minpo.net/yamasen/archives/images/study_080212-01.php','popup','width=345,height=460,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.kyoto-minpo.net/yamasen/archives/images/study_080212-01-thumb.jpg" width="150" height="200" alt="" /></a>　山宣のデスマスクを描いた橋浦泰雄（1888～1979）の未完の「大作」（縦150ｃｍ横198ｃｍ）を何とか現代に生かしたい。思いついたのが持ち運びが出来る屏風に仕立てることだった。各地の「九条の会」の集会や平和の催しに貸し出し、多くの人にデスマスクを見てもらい、山宣が生きた時代をもっと認識して欲しい。
　表具を頼んだのは、版画家の小林春規氏（写真・右）である。京都で良い師匠につき、確かな腕を保持している。長年、京都で活躍しておられたが、今は実家である新潟の農村の地で仕事をしていらっしゃる。「京都民報」で連載したデスマスクの紙面を送り、1月9日に新潟へ訪ねた。雪国で多雪を覚悟したが、雪は路傍に若干あるだけで、天候に恵まれた旅となった。
　小林氏は息子さんと二人で対応してくださった。屏風は大作の紙を真っ二つにカットして、２枚の襖（ふすま）に貼り付け、２枚を繋ぎ合わせることになる。問題はカットする位置だ。目、眉、耳などを切らない位置を確認し、正式に依頼した。
<a href="http://www.kyoto-minpo.net/yamasen/archives/images/study_080212-02.php" onclick="window.open('http://www.kyoto-minpo.net/yamasen/archives/images/study_080212-02.php','popup','width=460,height=296,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.kyoto-minpo.net/yamasen/archives/images/study_080212-02-thumb.jpg" width="200" height="128" alt="" class="img-left" /></a>　新潟では、もうひとつの出会いがあった。山宣の葬儀を描いた絵画作品「労働葬」（写真・左）を作成した矢部友衛（1892～1981）の消息である。矢部氏は新潟県人。小林氏から矢部氏の「遺稿集」を見せていただいた。生まれは新潟県最北部の村上市で、中学4年生まで過したが、父の逝去で母と伯母の住む糸魚川の中学へ転学していた。矢部氏は橋浦泰雄の４歳年下であり、大月源二の12歳年上である。戦前・戦後一貫して意志を貫き、民主的画家として生き抜き、ナップ設立の際、第1回委員長に就任した。
　「労働葬」の所在は1954年、国立東京近代美術館主催の「近代洋画の歩み」展に出品要請を受けたが、作品は行方不明となっている。恐らく、都合の悪い人たちの手によって隠されたか、処理されたのであろう。大月源二の「告別」が宇治の花屋敷にあるのは、大月氏自らが送り込んだのではないかと私は考える。
　未完の大作の「屏風」は5月の山宣生誕祭に間に合わせたいと御願いした。（山宣会顧問・蓮佛亨）]]></description>
         <link>http://www.kyoto-minpo.net/yamasen/archives/2008/02/post_49.php</link>
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         <category>002010_山宣研究</category>
         <pubDate>Tue, 12 Feb 2008 11:46:24 +0900</pubDate>
      </item>
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         <title>山宣　映画と講演のつどい　３月１日、福知山市三和町</title>
         <description>　「山宣」が右翼テロに虐殺された命日（1929年3月5日）を前に1日午後1時から福知山市三和町の三和荘で「山宣　映画と講演のつどい」が行われます。主催は同実行委員会。協力券1000円。
　山宣が虐殺された2日前に、福知山で講演が行われており、現地で山宣の生きた時代と今の平和や憲法について考えようと開かれるもの。映画は「武器なきたたかい」、講演は「山宣の青春時代」と題して宇治山宣会顧問の小田切明徳氏が話します。問い合わせ先は清水さんＴＥＬ０７７３・５８・２７０８。</description>
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         <category>005010_掲示板</category>
         <pubDate>Tue, 12 Feb 2008 10:30:42 +0900</pubDate>
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