京の地酒

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酒造りについて

酒造りの歴史

 大和に律令制が施かれて中央集権的国家が確立すると、宮中に造酒司(さけのつかさ/みきのつかさ)という専門の役所が設けられました。平安京でも、造酒司が維持され、酒造技術を発展させていきました。神社の社格や規則などに書かれた『延喜式(えんぎしき)』に、造酒司の醸造法が記されています。
 鎌倉・室町時代には、朝廷の力が衰退し「造酒司」の制度は維持されなくなりますが、京都の都市化、商業の発展とともに、朝廷にかわって寺院や神社が酒造技術を継承・発展させていきます。室町時代には洛中・洛外に300軒ちかくの酒屋が隆盛をきわめます。「柳酒屋」「梅酒屋」などの大店があったことが記録に残っています。酒を造って売るだけでなく、金融業を営む「土倉(どそう)酒屋」も多く生まれました。
 伏見では、豊臣秀吉の伏見城築城、淀川・宇治川の改修による水運の発展により、経済が発展。それにつれて、酒蔵が増えていき、「酒どころ伏見」の基盤をつくっていきました。
 江戸時代になると、伏見では伏見奉行が再三にわたり酒造制限をしたのにくわえ、灘の酒蔵の台頭に押され、苦境に陥っていきます。
 明治の東海道開通を機に、京都・伏見の酒蔵が販路を全国に求め、息を吹き返していきました。