京都民報
なるほど京都

京のお人形

人形寺・宝鏡寺学芸員が語る、京のお人形話あれこれ。

著者:田中正流

加茂人形「公家遠行」

加茂人形 加茂人形の歴史については、まだまだ解明されていない部分が多くあります。一般には江戸時代の元文4(1739)年に賀茂川の柳の木で祭祀に使う柳筥(やないばこ)を作っていた加茂神社の雑掌(ざっしょう)の高橋忠重が、その余材を利用し人形を彫り、古い装束の裂(きれ)などを木目込んで作ったのが始まりとされています。そのため「加茂人形」や「加茂川人形」、「柳人形」などと呼ばれていました。
  文政から嘉永(1818~1854)のころに流行したのが三代目の大八郎の時代で、「大八人形」の名で特に知られていました。素材の関係で大型の人形は少なく、大きなものでも十センチほどしかありません。逆に二センチ以下の極小の人形もあります。題材としては、七福神や能狂言、童子、公家風俗、庶民風俗まで幅広い種類が作られています。
  今回の加茂人形は、宝鏡寺の御門跡が代々受け継いできた人形で「公家遠行」といいます。公家の外出姿をあらわし、狩衣(かりぎぬ)風の装束を着た公家男性が騎乗し、仕丁(しちょう)姿の男性が四人付き添っています。そのうち一人は雨の時のために立傘を持ち、一人は公家のための沓(くつ)台を持ち、後の二人も何かを持っていたいたようですが、今は残っておりません。
  古い作品には丸顔の童子姿をしているものが多くありますが、後の作品には面長なものが多く作られています。この人形は面長な顔をしていますので江戸時代の中期以降の作品だと推定されます。彫りは浅い割には鼻を高く表現しているところが特徴的で、何か笑いかけているような雰囲気を持っています。馬まで笑っているような顔をしていて、幼少のころよりお寺に入られた皇女方のお心をさぞ慰められたことでしょう。
  幕末に京都の人形店清水屋が出版した『ひな人形の故実』には、「加茂の柳木、または木紛に色々きれを以て木目込み故、木めこみ人形といふ。いとまきにもかさり、能狂言人形有」とあります。加茂人形は江戸時代の京都を代表するお人形でした。その後継者も現在ではほぼ途絶えましたが、同じ技法の人形は全国的に作られています。しかし趣は全く違っています。江戸時代の加茂人形を見ていると素朴な中にも豊かな造形力と感覚があり、明るく楽しい表現に魅了されます。

写真:加茂人形「公家遠行」宝鏡寺門跡所蔵