喜多方高校に下宿して通う

倉林明子物語(2)

 午前7時、目覚まし時計の音。布団をはねのけると、すき間風と一緒に舞い込んだ雪が畳に落ちます。「今日もしばれるな」。
 1977年2月。中学卒業後、実家の西会津町から20キロ離れた喜多方市に下宿して、間もなく1年。民家の屋根裏部屋。8畳間に机代わりのみかん箱とたんす代わりの段ボール。朝食に近所のパン屋でもらった食パンの耳をかじり、部屋を飛び出ます。
 「おはよう」。雪に埋まる校門をくぐると、クラスメートが駆け寄って声をかけます。「渡辺先生の宿題忘れてた。おめぇの見せてくなんしょ」。福島県立喜多方高校は、県内有数の進学校。入学して、新入生を代表してあいさつしました。首席でした。数学、英語、生物、日本史、古文。苦手科目はなし。
 放課後、体育館でラケットを振ります。卓球部。練習は欠かしません。午後6時、連れ立って帰宅する同級生を横目に、アルバイト先の「やまと屋旅館」へ走ります。実家からの仕送りはなし。学費、生活費をまかないます。旅館では、部屋の片付けなど仲居の仕事。午後10時、家路につきます。
 帰宅し、勉強に取り掛かろうとすると、外から友人たちの声。結局、深夜まで語り明かし、宿題、家事を終えて布団に入ったのは午前3時過ぎ――。
 高校生活を振り返って言います。「本当に毎日忙しかったけど、やるしかなかったし、大変だとは思わなかった」。

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すべてこなす「三立の女」

 「三立の女」。学業、部活動、アルバイト。この3つすべてを成り立たせる行動力をたたえて同級生はこう呼びました。下宿で語り明かした同級生の1人、高橋勝行さん(52)=福島県医労連書記長=は、「バイタリティーのあふれる人だった。生活の厳しさを感じさせない明るさがありました」と評します。
 「あっこ(明子)のことか? よぐおぼえてる!」
 「やまと屋旅館」の女将・菊地和子さん(65)は、35年前のバイト学生の一生懸命な仕事ぶりを覚えていました。「いっつも全力だった。廊下の花瓶を倒して水浸しにした時、『おら、なんて馬鹿なんだ』って泣きながら掃除してたべ。気の強い子だったよ」と振り返ります。
 夏休みのバイト先だった「靴のコバヤシ」の小林道子さん(65)も、「働き者のできた子だった」と振り返ります。「土曜日に朝から大きなおにぎり1つだけ持ってきて、1日働くんだ。日曜日は実家に帰って畑仕事を手伝うと言うからたまげた。テレビばっかり見ているうちの子に“三瓶さんみてぇにしっかりしろ”と言ってた。あんな子は後にも先にも見たこどねぇ」。

農家は食えね手に職つけろ

 「1人暮らしは長続きしない」。当初、母・末子さんは喜多方高校への進学に反対しました。「そんなことはない。おら1人でもやっていける」。涙ながらに反論し、譲りませんでした。家に負担をかけず、看護師になって独り立ちする。そんな決意からでした。
 1979年春、京都に発つ前夜。京都市立看護短大への進学を決めた倉林さんに、末子さんがボロボロになった預金通帳を見せました。「おめぇもわかるだろ。農家は食っていけねぇ。しっかり手に職つけるまで帰ってくるな」。
 あれから34年。末子さんがエールを送ります。「やると決めたからには貫く子だ。政治家も決意したからには絶対勝ってこい」。(「週刊しんぶん京都民報」2013年2月24日付掲載)