本年は辰年です。中国後漢の時代(25─220年)に編纂された『漢書』律暦志には、「辰において、三月陽気まさに盛んに万物、振るい起って延長」とあり、「辰」とは春に草木がすくすくと成長することと記されています。後にわかりやすいように十二支のそれぞれに動物が当てはめられ、「辰」は想像上の動物である「龍」とされました。
 前漢の武帝の時代(前179─前122年)に編纂(さん)された『淮南子(えなんじ)』天文篇には、天空世界の四方を守る獣の一神として、青龍が朱雀・白虎・玄武とともに出てきます。この四神の思想が日本へ入ります。最近では、キトラ古墳の障壁画で話題になったので、ご存じの方も多いと思います。

蛇と混じり合って伝承

 日本へ入ると龍は、古来より豊穣のシンボルとして信仰されていた蛇と混じり合いながら伝説や民話の中に現れます。灌漑(かんがい)技術の未熟な時代には、干ばつが続くと龍や蛇に生け贄(にえ)や食べ物を捧げ雨乞(あまご)いを祈願しました。弘法大師が神泉苑で善女竜王を呼び、雨を降らせたという逸話もあります。道成寺の有名な絵解き説法に、思いを寄せた僧・安珍に裏切られた少女・清姫が、激怒のあまり蛇身に変化し、道成寺で鐘ごと安珍を焼き殺す場面がありますが、絵巻では清姫が変化した蛇は龍の姿をしています。蛇と龍の区別は非常に曖昧だったのです。龍または蛇の棲む池なども全国に数多く存在しています。
 一方で、仏教の伝播とともに、仏法を守護する龍王として広く普及し、寺院建築や仏具などに龍の造形が彫像や図像として使われてきました。
 江戸時代中期に出版された『和漢三才図会』には、手足のないものが蛇であるのに対して、四本足を持つものが龍であると記されています。その姿は「九似(きゅうじ)」といい、角は鹿、頭はラクダ、眼は鬼あるいは兎、うなじは蛇、腹は蜃(みずち)、鱗は鯉、爪は鷹、掌は虎、耳は牛に似ているとされています。また春分には天に昇り、秋分には降って淵に入るといった龍の習性まで紹介されています。この書籍では、面白いことに龍は龍蛇部に分類され、蛇やトカゲ、イモリ、ヤモリなどの実在の動物と同じ部で取り上げられています。

異色の禅刹「達磨寺」

 その龍がだるまを胸に抱いている土鈴があります。京都市上京区の通称「達磨(だるま)寺」で授与されている干支土鈴です。終戦後、原松風氏によって作られ、毎年、十二支の動物とだるまがセットになった土鈴が授与されています。土鈴愛好家の間では有名なのですが、一般にはあまり知られてないのかもしれません。
 達磨寺は、正式には大宝山法輪寺といい、臨済宗妙心寺派の古刹です。享保12(1727)年に、大愚和尚が開山し、開基は室町の両替商「伊勢屋」の荒木宗禎です。武家の開基になる寺院が多い臨済宗妙心寺派にあっては異色の禅刹といえます。本尊は釈迦如来です。珍しい布団に寝ている等身大の仏涅槃木像や白隠禅師の『夜船閑話』に出てくる白川山中で数百年生きた仙人・白幽子の旧墓石などもあります。特に有名なのが、三国随一とされる起き上がりのだるまをはじめ、所願成就に奉納された八千体にも及ぶだるまを祀った達磨堂です。

七転び八起きの精神

 達磨大師は、印度から中国へ禅を伝え、崇山少林寺で長い間脇目も振らず座禅し、手も足もなくなりお尻も腐ったと世間が評判するほどの忍苦の修行をした禅宗の開祖です。大師の忍苦の精神を慕い、終戦後に七転び八起きの精神で復興するため、市民に呼びかけ達磨堂が建立されました。毎年2月の節分には、数万人の参詣者で賑わい、境内は起き上がり達磨で埋め尽くされます。
 倒れても転んだ力で起き上がる達磨像は寺院や仏壇から抜け出し、子供のためには玩具として、大人のためには必勝だるまとして活躍してくれます。
 龍とコラボレーションするだるま土鈴は、カランコロンと土ならではの優しい響きで癒してくれます。何度転んでも自力で起き上がり、苦にもめげず、昇龍の如く復活することを象徴しているように思われます。震災や台風で被害にあわれた人々の物心両面での復興が早く実現できますように願っております。(「週刊しんぶん京都民報」2012年1月1日付掲載)