”満州”に翻弄されて 「戦争はどのようにして始められた?」をテーマに開催中の2011年平和のための京都の戦争展で4日、平和遺族会が主催する「”満州”に翻弄されてパート2」が開催され、会場いっぱいの100人が参加しました。
 平和遺族会を代表して倉本頼一さんが、来年、中学で採用される教科書の中に神話の神々の系図が掲載され、太平洋戦争を「大東亜戦争」と呼んで、アジア解放の戦争と位置づけるなど憲法に反し、史実をゆがめる内容があることを批判し、「戦争の真実は今日の実体験された方々の報告を通じて明らかにしていきたい」と述べました。
 第1部は悲惨な体験談で、「廟嶺(びょうれい)京都開拓団…その天国と地獄」と題して亀岡市在住の黒田雅夫さんと城陽在住の相井道夫さん(両氏とも「廟嶺京都開拓団の会」会員)から満州渡航から逃避行・引き揚げまでの少年期における実体験を語りました。
 廟連は中国東北部にあります。2人とも一家で戦争末期に移住し、食べ物がなく生活は極度に困難化したこと、満州開拓団は徴兵されないという触れ込みと京都府などの呼びかけで、敦賀から渡航したことを話しました。
 しかし、「現地についたら、中国や朝鮮の人たちが耕作していた土地や家屋を取り上げるんです。日本人学校も作られて通いましたけれど、戦争で負けてからは苦難の連続の逃避行と引き揚げでした」と当時を思い出しつつ赤裸々に語りました。
 第2部は 「日本軍はなぜ傀儡満州国をつくったか」と題して、日中友好協会京都府連の桐畑米蔵理事長が講演。「旧満州開拓団碑」を巡る現地中国の人達の批判や抗議について話しました。
 「満州は日本が開拓したものではなく、現地の人々の耕作地や家屋を奪った」と述べ、「日本の加害行為をきちんと認識することがアジアでの日本のあるべき立位置」と強調。「満州」や「満蒙」という名で日本人に知られるようになったのは日露戦争以降の歴史からで、日本帝国の国策として移民を開始した理由と歴史について資料を示しながら詳述しました。
 また、日本軍や政府は、他国へ送り出して起きながら引き上げの努力をしなかったどころか、棄民政策の断行で遺棄し、日本の戸籍を抹消したことを厳しく糾弾。「ようやく入国の門戸は開かれたが、すでに老齢化で生活保護との日本語会話ができない孤独で悲惨な生活が実態で、だからこそ、1949年のジュネーブ条約や世界人権宣言、国際人権規約さらに日本国憲法13条(幸福追求権)、など今後運動を一層大きくしなければ」と訴えました。(仲野良典)