平和のための舞鶴の戦争展 第17回平和のための舞鶴の戦争展が7月29日から31日まで、舞鶴市の「市政記念館」で開かれ、のべ800人が参加しました。
 「舞鶴軍港100年」をテーマに、舞鶴に軍港が設置されてからを時系列で展示しました。オープンスペース中央に回天の3分の一の模型、原爆模擬弾、特攻兵器「震洋」を展示して、一目でわかる工夫がされ、今日の舞鶴軍港が全体の流れが分かると大変好評でした。
 圧巻だったのは、66年前、学徒動員で京都洛北女学校から舞鶴海軍工廠に来ていた生徒が1945年7月29日の原爆模擬弾で7人が犠牲になり、多数の重軽傷者を出した中で、奇跡的に一命を取り留めた方の訪問でした。橋本時代さん(82)で、この日は共に動員で苦労した同期の仲間2人と舞鶴共楽公園で行われた戦争犠牲者を追悼する慰霊祭に参加した後、この戦争展に立ち寄りました。
 橋本さんは、空襲で両目を失明し、左耳がほゞ聞こえない大けがを負いました。展示されているその模擬爆弾の模型は橋本さんの背丈よりも高く、直径は手の3倍以上もありますが、実際に手で弾頭から翼に触れて、「橋本さん、これがあなたの目から光を奪った爆弾です」との説明に、ただただ黙って「そうか、そうか」とうなづいていました。
 「舞鶴市政記念館」は、66年前、爆心地から僅か1.3キロの距離に建つ「第三砲術庫」が改装された地に建てられました。半世紀を超えてもなお、戦争の苦しみを体に背負いながらも元気でおられることに対し、平和への想いに強く胸を打たれました。この場面では、戦争が昨日にあったかのような緊張感がありました。
 また、空襲コーナーも特別に作り、29、30日の空襲の説明に多くの方が熱心にききいっていました。とりわけ、空母6隻が南方洋上から142機の艦上機を飛ばし、66トンの爆弾を投下した「米軍戦闘報告書」にもとづく資料の説明には拍手がわき起こりました。
 会場では、多くのガイド役の皆さんが声をからして奮闘しました。会場では「これは舞鶴ならではの戦争展」との声も寄せられました。
 また、「学徒動員」体験者や徴用工、見習工で働いていた方がたも来られ、新しい証言も寄せられ、新たな発見もあるなど、我々が知り得ていなかったところの証言もあるなど関心の高さを示していました。(関本長三郎)