1949年から50年にかけて日本共産党員、およびその支持者を「国家・企業の破壊者」と見なして強制的に追放した事件―レッド・パージ。60年目の今年、不当な事件の真実を語り、名誉回復を訴える人たちの証言をたどります。

映画会社「大映」─「企業の破壊者」なんて認めない

 1950年9月25日、東宝、松竹、大映など、日本の映画会社にレッド・パージがおそいかかりました。京都太秦の大映でも22人が「共産主義者で企業の破壊者」とデッチ上げられ解雇されました。当時、大映ニューフェイスとして売り出し中であった女優の早見栄子(80)さんもその犠牲者でしたが、汚名を認めず17年間裁判でたたかい抜き、勝利しました。
 「共産主義者および同調者は企業を破壊する恐れがあるため解雇する。該当者は、黒田清己、若杉光夫、…早見栄子」。突然、演技道場に監督、俳優、技術スタッフなど全社員が集められ、通告されました。瞬間、頭が真っ白になりましたよ。前日に「海峡の鮫」(50年、安達伸生監督)の撮影が終わったばかり。翌10月には上映という時でした。
 「企業の破壊者」なんて、とんでもない。納得できませんでした。私は会社の労働組合の婦人部長に任命されていたので、女性差別撤廃などの署名を集めていただけ。共産党は支持していましたが、表立って活動したことはありませんでした。
 大映に入社したのは46年、16歳の時で、第1回俳優研修生でした。和歌山の商家の娘として育ち、子どもの頃から役者はあこがれでした。敗戦直前の7月、空襲で全て焼け、無一文。新聞広告で見つけた大映ニューフェイスの応募にすぐ募集し、幸運にも合格しました。
 撮影現場は、「これからは自由に映画づくりができる」と、解放的な喜びで、活気にあふれていました。私は「飛ぶ唄」(46年、管英雄監督)や「月よりの使者」(49年、加戸敏監督)などに出演。さあ、これからとはりきっていました。大映では先輩俳優も気さくに演技指導してくれて、自分もいつかいい役をもらいたいと必死に目立とうとしていました。
 レッド・パージされた次の日には組合事務所が社外に移され、会社に入ることも許されなくなりました。こんな汚名は認られない。何としても解雇の撤回を求めました。しかし、大映側は話し合いにも応じませんでした。解雇された22人のうち11人が、翌51年12月に提訴しました。一、二審とも解雇は無効と勝利しました。そして損害賠償の請求も示談で解決。17年かかりました。
 その間に私は俳優の仕事がしたくて劇団京芸に入団しました。女優として魅力ある仕事をしていたので、大映は退職して劇団に専念しました
 昨年、ようやく自民党の政治が終わりました。あの時から60年、「アメリカいいなり」の政治をいよいよ抜け出してほしいですね。

※黒田清己(くろだ・きよみ) 1978年8月20日没(享年56歳) カメラマンとして、「羅生門」(50年、黒澤明監督)=ヴェネチア国際映画祭グランプリ受賞(撮影助手)=ほか、「裸の島」(60年、新藤兼人監督)=モスクワ映画祭グランプリ受賞=「不毛地帯」(76年、山本薩夫監督)など、さまざまな作品を残している。