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大商大事件を語る─林直道大阪市立大名誉教授(12) 大量検挙始まる

平和・民主主義

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2008年08月20日 18:16

大商大事件を語る─林直道大阪市立大名誉教授(12) 大量検挙始まる

 日本学生運動史上の3大事件といわれる「大阪商大事件」について、当時大学生で大商大弾圧の被告でもあった林直道大阪市立大学名誉教授が7日、立命館大学平和ミュ-ジアムで当時の体験を語りました。その内容を12回に分けて再録します。

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<< (11)ケルングループの結成
 そうしてケルングループに呼ばれた5人のうち、私を含めた2人が存命中です。1人は私と対立する立場になり、こうした場に呼びかけられなくなってしまった。何でやと思うが人生は色々あるんですね。ケルングループの次の組織に入った友人の平井としおくんは今年の春亡くなってしまいました。平井くんには「あったことキチッと書いといてや」って僕は言われています。
 当時の研究会は目立つことを避けるために3人か4人で活動していました。灯火管制があり電灯に黒いホロを被せ、その中に首を突っ込みながら読書会を開いていました。『帝国主義論』や『資本論』『共産党宣言』『日本資本主義発達史』、毛沢東の『持久戦論』とかいったものをテキストにしたんです。こういう段階があって共産党宣言を筆写したものは広まっていきました。『賃労働と資本』とか今から見たら本当に初歩的な文献ですけども。

 全部合わせれば100人近い学生が自発的に研究会を作り、侵略戦争反対の意識を高めました。戦争末期のあの時代に。
 京都とか他の大学が一緒懸命反戦運動や色んな学生運動やってる時に、大阪商大はあんまり(反戦運動など)やっていないんですよね。終わりのほうになってからヌヌヌヌヌと(反戦運動や学生の権利を守る運動を)始めるんですね。
 合法研究会の「工業医研究会」を通じて軍需会社、中山製鋼、藤永田造船、汽車会社などを堂々と表から見学に行きました。

 1943年に(研究会の関係者らは)全体で85人起訴されましたが、割合元気でした。戦地に兵士として動員された学生が仲間の肉を食べたりしていた話を聞いていましたから、それと比べればと思って耐えられた。もう一つはこの頃にはガダルカナルから(日本軍が)撤退していたりミッドウェー海戦の惨状とか知っていましたから、日本はいずれ負けることがはっきりしていたからです。
 「こんなひどい戦争をやった軍部を中心とした体制に必ず反対運動が起こる」「従順な日本国民も、これだけ酷い目に遭わされた戦争なんだから民主化が起こってくるだろう」だから「こうやって拘留されていても必ず釈放される」と思って元気だった。歴史の見通しが立ちましたから。

 獄内での闘争しました(レポ事件)。立野保男先生が教室で共産主義の宣伝をしたとあらぬ咎をかけられて逮捕され、獄内で気が狂ってしまいました。「早く執行停止して精神病院で治療しなければ優秀な学者が廃人になってしまう」と上級生や立野先生の講義を受けた学生に、「先生の無実を訴えろと徹底しろ」と通達がきました。私は「どうやって徹底しろというのか」と思いましたが、「貴重な鉛筆の芯だから君に贈る」と(様々な工夫をしてレポを)渡したんですね。
 中には巻き込まれたくないと、当局にレポを届ける人もいました。首謀者の私と森たつみくんが厳しい懲罰を受け、食事を5等食に減らされて作業は中止。お腹がすいてどうしようもなかった。「ワカマツ」という薬の配達があり、ぬかの味がするので食べ始めたらとまらなくなって大瓶を全部食べてしまい、長いこと便秘で往生しました。
 絶えず飢餓状態だったのが、さらに食事を減らされていっぺんに衰退しました。森君は喉頭結核にかかり危篤状態になって裁判を停止し、家で無念の死を遂げました。私も死ぬ一歩手前まで近づきましたが、何とか病気にならなかったのでちょっとした違いで生きながらえました。
 森君に最後に連絡したときに、レポはキャッチされるから、処分するように言いました。その時森君はうなずいているだけでしたが、彼の顔が今でも目に焼きついています。彼のお父さんは大阪交通労働組合で高野山ストライキをしていた人でした。森君はいい奴だったが死んでしまった。彼は優秀だったから、生きていたらものすごい理論が出ていたでしょう。森君の犠牲もあり、立野先生の無実の訴えは予審判事の耳に届いただろうと信じています。

 戦後立野先生は一時復帰されましたが、授業は無理だろうと精神病院に入り、先年(07年)、90何歳で亡くなりました。敗戦後10月4日に「思想犯釈放令」が出て、米軍によりみんな釈放されました。
 獄死が3人、精神異常が2人、釈放直後に死亡したのが2人、不治の病を得て長期療養後死亡したのが1人、戦争に行った人たちの被害に比べれば少ないですが、こういう犠牲の上に当時の大阪商大の学生は、勝つことはできなかったが戦争反対の良心を貫きました。

 今から考えたら、非常にささやかな抵抗運動で、研究会をつくって多少暴れただけのことではないかと思うかもしれませんが、当時はこれだけのことをするのにも命がけでした。現代はアメリカに対する軍事協力、公安審査庁の民主団体に対する内偵調査が行われたり、最近ではビラを配布したと罪に問われるなど変な雲行きになっていますが、治安警察や治安維持法の復活など絶対に許してはならない。そして戦後培われてきた平和と民主主義を我々は大事に大事に守っていかなければなりません。
 戦前は平和ミュージアムができたり、壇上で公然と話ができるとは思ってもみませんでした。戦後日本もすっかり変わりました。この平和と民主主義というのを崩さないように、さらに拡大していくのが残されたものの使命であると考えています。(おわり)