戦没者遺族の会は「第28回平和のための京都の戦争展」の文化企画として7日、「遺族が語る戦争体験――その時家族は、その後私は」を開き約40人が参加しました。
 橋本喜則さんの発言の要旨を紹介します。
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 父の出兵が決まった時、「おめでとうございます」と言われました。死にに行くのに「おめでとう」はないだろうと思いますが、父は万歳する人たちに送られて汽車にのり、戦場へ行きました。それが、私が父を見た最後の記憶です。
 雑草などを食べて飢えをしのぎました。昭和20年7月15日、私は、母が大切にしまっていたジャガイモを食べさせてと言いましたが食べさせてくれないのでふて寝していた時、空襲警報が鳴りました。母と弟と家の外に逃れ、隠れましたが、母が「通帳と印鑑を忘れた」と家に取りに戻ろうとするのです。私は必死で止めました。空襲のあと家に戻ってみると、畳にガラスの破片が突き刺さっていました。あの時家に戻っていたら死んでいたと思うと、ゾッとします。
 焼け野原になった街は、なにがなんだかわからなくなっていました。あたりには人の焼けるにおいが立ちこめ、首を吹き飛ばされた死体がころがり、道端の遺体が魚のようにトラックに乗せられて運ばれていく様を覚えています。
 戦争が起こると、人が人として扱われないのです。二度と戦争してはいけません。