11年間にわたり裁判官を務めた出口治男弁護士(62)=中村和雄を京都市長に推す弁護士の会代表=が訴えている、「京都の町衆の精神と京都市の教育行政」を紹介します。
教育を与えて再出発をはかる
    
 京都では1869年(明治2)6月30日、上京第27番組小学校(後の柳池校)と下京第14番組小学校(後の修徳校)が開業式を挙行、年内に市内64番組に小学校各1校が設立されました。
 福沢諭吉はその3年後の1822年(明治5)6月6日、市内の小学校を見て回りました。福沢は「一区に一所の小学校を設け、区内の貧富貴賎を問わず、男女生れて7、8歳より13、4歳にいたる者は、皆、来りて教を受くるを許す」システムであると書いています。
究極のやらせにエコヒイキ
 「当時、小学生徒の数、毎校少なきものは70人~100人、多きものは200人~300人余」(それでも)「学校の内、きわめて清楚、壁に疵つくる者なく、座を汚す者なく、妄語せず、乱足せず、取締の法(秩序)、ゆきとどからざるところなし」と観察しています。そして、「今年すでに(生徒の数は)1万5000の数あり、明年に至らば、また増して3万となり、他の府県もまた、この法にならって学校を建てざる者なかるべし」。こうした小中学校こそが、「一身一家の独立をはかり、ついに一国を独立せしむる」基盤であると強調しています。
 幕末、京都の中心部は戦火によって多くの民家社寺が焼けました。その上、天皇が江戸へ移り、京都は社会基盤的、精神的に大きな危機を迎えました。しかし、戦国時代の混乱期にあって町衆が祇園祭を復興したのと軌を一にして、明治の初めに、京都は、やはり町衆が子どもたちに教育を与えることによって再出発を図ろうとしたのです。
 ここに、京都の時代を先取りする精神、自治を中核として街をつくる心意気が表れていると思います。
 しかし、ここ7~8年程の間に、京都の教育は、文科省の鼻息を伺うような、強いもののご機嫌をとる内容になってきました。「心のノート」を率先して導入する、タウンミーティングでは、サクラを動員することのほかに、批判的な意見を持つ人をあらかじめ外すという、究極の「やらせ」を行いました。
 他方、市内の各地域い公平平等な目配り、金配りをせず、ある特定の学校、地域に集中的にお金を投入するという、これまた究極のエコヒイキ教育行政を行ってきたのです。その金額も、校舎建設だけで99億円とか57億円とかという巨額なのです。私立ならいざ知らず、公立の義務教育のもとで、こんなことをすれば、他の地域へのお金が不足するのはだれでも分かることです。そのために、他の地域の子どもたちや先生たち、教育設備が犠牲になったのです。
貧富貴賎問わず教え受くる
 私は裁判官時代から弁護士になって今日までに、多くの少年事件や教育問題に携わってきました。最近痛感するのは、非行少年の社会の中で処遇する処方せん、プランを書くことがとても難しくなってきたということです。「いまここに」教育行政が光を当てるべきだというのに、何もしてくれない、すべてを現場に放り投げているということを見てきました。全体が貧しいならまだ仕方ないといえるかも知れない。
 しかし、京都市の教育行政は、どの子どもたちに対しても公平平等に大切にしようという姿勢がなく、その結果、切り捨てられてきたところがあったのだということに、気付いたのです。それを知った私の悩みは怒りに変わってきました。
 「貧富貴賎を問わず、皆来りて教えを受くるを許す」という基本中の基本の精神が失われ、富める者、弱い者、できない者を切り捨てる教育行政が行われ、その結果として、多くの子どもたちの個別的な処遇プランが書けなくなったということに気付いたのです。
 もう一度、京都の町衆の、進取、自治、中央なにするものぞ、自分たちの手で貧富貴賎を問わない本物の教育をつくろうとする精神を京都の教育、子どもたちに注入しようではありませんか。
 2月3日告示、17日投票で行われる京都市長選挙が、桝本市政の下での教育行政の不公平、不平等な在り方が根底から問われ、それを刷新する絶好の機会であることを肝に銘じましょう。
 そして、中村和雄さんこそが町衆の精神で、多くのお母さん方とともに京都市教育行政を刷新できる方であり、中村さんを市長に押し上げることで初めて京都の教育が本物になると確信しています。中村さんに対するご支援を心からお願い申し上げます。(「週刊しんぶん京都民報」08年1月27日付2面掲載)
 出口治男氏の略歴 1945年、石川県生まれ。金沢大学法文学部卒。70年から81年まで裁判官。京都弁護士会に所属し、97年から1年間京都弁護士会会長を務める。現在、中村和雄を市長に推す弁護士の会代表。