日本共産党元伊根町議で京都海区漁業調整委員の芦原英雄(あしはら・ひでお)さんが10月31日、漁業中の事故で死去しました。74歳。葬儀は11月2日、与謝郡伊根町平田84の自宅で行なわれ、吉本秀樹・伊根町長をはじめ、町内外から各界の人が多数参列。日本共産党からは地元をはじめ各地の党員、地方議員、西山登紀子・府副委員長(前参院議員)、寺前巌・元衆院議員、吉田さゆみ・京都5区代表、松尾孝府議、山岡明・与謝地区委員長ら多数が参列しました。喪主は妻、サカ江さん(日本共産党伊根町議)でした。告別式では、吉本町長、松尾府議ら4人が弔辞をのべました。このうち、松尾府議の弔辞は次の通りです。
 弔辞
 京都海区漁業調整委員・元伊根町議会議員、芦原英雄さんの葬儀にあたり、日本共産党京都府委員会を代表し、与謝地区党をはじめ全ての党員に代わって心から哀悼の誠を捧げ、お別れの言葉を送ります。本日は、府副委員長、前参院議員の西山登紀子さん、元衆院議員の寺前巌さん、京都5区代表の吉田さゆみさんも参列しておりますが、故人とのかかわりの長い私からのべさせていただきます。
 芦原さん、あなたは1933年6月20日、この伊根の地に生を受け、爾来74年、伊根町に生涯を捧げてこられました。1949年、伊根中学を卒業するとすぐ伊根漁協に勤務、強健な体に物をいわせて懸命に働き、漁師として生きる覚悟を決めた貴方は、まもなく航海士免許を取り、巾着(きんちゃく)船に乗り込み、若くして船長を務めるなど頑張りました。後には、漁協運営委員、総代会委員なども務め、漁協の発展に尽くされました。また、農協理事や小学校育友会長、さらに、平田区長、伊根町・区長協議会会長を務められるなど地域に尽くされました。貴方のこの生涯は伊根町の多くの皆さんの心に深く刻まれていくものと確信いたします。
 私はここで、日本共産党員としての貴方の生きざまについて触れさせていただきます。 青年団活動の中で成長された貴方は1955年6月、日本共産党に入党しました。翌年には日本共産党伊根町支部を結成、支部長となって青年学級や社会教育活動をすすめ、青年の声を議会へと青年議員を町議会に送り出す取り組みを始めました。そして2年後の58年、自ら立候補し初当選、伊根町に日本共産党の初議席を生み出しました。立候補表明は被選挙権が与えられた25歳の誕生日の翌日だったとのことであります。以来、7期28年、貴方は町議会議員として町民の皆さんの暮らしを守るために奮闘してこられました。 この間、議員3期目の1972年、貴方は京都海区漁業調整委員に初当選しました。今日まで9期35年、漁調委員を続け、漁区設定の公平、漁場破壊や荒廃防止などに取り組んでこられたのですが、特に、あの新宮津火力反対闘争の先頭に立った貴方の姿は今も、多くの皆さんの胸に焼き付いているものと確信しております。
 さらに、貴方はこの数年、伊根町を揺るがした合併問題でも、「町の将来は町民が決める」と「愛する伊根町を守る会」の皆さんとともに、「直接請求署名」の先頭に立ちました。いま、伊根町では、押しつけ合併は見事に粉砕され、「小さくても元気のある町」をめざし、自律の取り組みが粘り強く進められていますが、今後とも確実に前進しますよう見守ってください。
 芦原さん、貴方は町議会議員7期28年、漁調委員9期35年、実に49年間、半世紀にわたって重要な公職にあってその役割を立派に果たしてこられました。貴方のこの活動は、京都はもちろん、全国的にも例を見ないものであり、心から敬意と感謝を表明したいと思います。同時に、貴方の貴重な活動は絶対に守っていかねばなりませんが、すでに、奥さんのサカ江さんが立派に引き継いで下さっています。みんなで奥さんを支え、頑張っていきますのでどうかご安心ください。
 芦原さん、貴方もご承知だったように、参議院選挙の結果を受けて、いま政治は大きくかわりつつあります。貧困や格差を少しでもなくしていく、それを生み出した政治の大本を変えていく、貴方とともにたたかえないことは本当に残念ですが、貴方の分も含め全力を尽くす決意です。
 一昨日、貴方の訃報をお聞きして本当に驚きました。健康を害し、体力を失いながら、簡単にへこたれない根性でカムバックしていたのにと残念ですが、致し方ありません。また、漁師一筋、海に生きてきた貴方が海で死ぬ、何ということか、と思いましたが、貴方にとってはそれが本望だったのかも知れないと思っています。
 芦原さん、いよいよお別れです。どうか、安らかにお眠りください。
 2007年11月2日
          日本共産党京都府議会議員  松尾 孝